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2007年07月 に書いたもの

2007年07月02日

「ヤンヤン 夏の想い出」 ~世界映画の良識~
エドワード・ヤン監督

ヤンヤン 夏の想い出」(2000

監督: エドワード・ヤン
製作: 河井真也
脚本: エドワード・ヤン

出演:
ジョナサン・チャン
ケリー・リー
イッセー尾形
ウー・ニエンジェン
エイレン・チン


[はじめに…]
今朝は小雨が降っていて、いつもより静かな目覚めを迎えました。
眠っている間に友人から携帯電話にメールが届いており、枕元で開封してみました。
「エドワード・ヤンが死にました」という一文が目に入ってきました。
07年6月29日、59歳の若さで癌のため亡くなられたそうです。
心よりご冥福をお祈りします。


【おはなし】

タイトルから連想するような、少年ヤンヤンがおじいちゃんちで過ごした夏休みの思い出、といった内容ではありません。
ヤンヤンを含む一家のそれぞれの出来事が描かれます。

【コメントー世界映画の良識ー】

公開の翌年、01年にレンタルビデオで鑑賞した。
その頃僕は悶々としていた。
大学を中退して以来、アルバイトを転々とし、さて自分はどこに向かおうとしているのか、さっぱり分からず、苛立っていた。

そんな時にこの作品にめぐり逢った。
あの時、この映画を観れて良かったと、心から思っている。

ヤンヤンの叔父の結婚式から、この映画は始まる。
叔父の元恋人が現れ、華やかな結婚式の場は一瞬にして修羅場と化す。
さらに、同じ日。
ヤンヤンの祖母が倒れて意識不明となってしまう。

導入から穏やかならぬ事態が連発するが、映画はちっともバタバタしていない。
落ち着いたタッチは、その様子を黙って見守るようにと僕に語っているようだった。

ヤンヤンの父親は、納得していなかった。
会社の方針はどうも利己的に過ぎる。
もっと先を見据えて、人としてあるべき態度で経営を行うべきだ。
日本から来たゲームプログラマー大田(イッセー尾形)と静かで熱い意気投合を果たす。
そんな折、学生時代の恋人と偶然に再会する。
あの時彼は、彼女から逃げることで関係を自然消滅させていたのだった。
その落としまえを、今になってとらなければならないのだろうか。
だが、甘い記憶とともに、もう一度会う約束をしてしまう。

ヤンヤンの母親は、涙が止まらなかった。
幸福なはずの家庭と、充実しているはずの仕事を、いつしか負担に感じていたのだろうか。
ナーバスになり感情を抑えることができなくなっていた。
友人の勧めで新興宗教に助けを求めた。藁にもすがる思いだった。
そんな妻を、夫は咎めようとはしなかった。
全てを受け入れようとした。
だがもしかすると、彼女にかけるべき言葉が何も見つからないでいるだけなのかもしれなかった。

ヤンヤンの姉は、嫉妬していた。
気になる彼は友人の恋人だった。
想いを伝えるなどということは考えにも及ばなかった。
二人が睦まじく歩いているのを遠くから眺めるばかりだった。
ところがある日、唐突に彼が告白をしてきた。
あの子とは別れたと言う。
うれしさと驚きと後ろめたさとで、動揺した。
でも、お互いに好き同士ならば、一体なんの問題があろうか。
まさかこの後、恐ろしい犯罪が起こるとも知らずに、彼女は彼とお付き合いをしたいと思った。

ヤンヤンの祖母は、意識不明のままだった。
自宅のベッドで横になったまま彼女は動かなかった。
母親の発案で家族は毎晩、ベッドの脇でお婆ちゃんに語りかけた。
もしかしたら意識の奥に届くかもしれない。
一人一人、日替わりで話しかけた。
いつしかそれは、彼らにとっての懺悔の部屋となっていった。

そんな中、ヤンヤンは奔放に日々を過ごしていた。
学校でイタズラをやらかし、先生に怒られた。
可愛いあの子にちょっかいを出してみた。
お父さんにもらったカメラで、人の後姿ばかりを撮ってみた。
「だって、背中は自分で見えないでしょ?」と飄々としたものだ。
ある嵐の日、ヤンヤンはプールサイドにいた。
あの子は泳ぎが得意だ。
僕はカナヅチなんかじゃない。
男の子の意地が、彼をプールの中へと飛び込ませた。

登場人物の抱えるそれぞれの葛藤が、こうも身近に迫ってくる映画も少ない。
僕は、この映画を思い出すだけでボワーッと胸の奥が熱くなるのを感じる。
どのエピソードもドスンと響いてくる。

修正の難しくなった個々の問題がいよいよひずみを帯びてきて、言い知れぬ緊張感で映画が染まる。
物事は簡単に進んでくれない。
皆もがいていて、みっともないエゴを出しては反省する。
悲しき人間の営みを、エドワード・ヤンは肯定の眼差しで描写する。
決して見捨てない。懐の深さがある。
切ないドラマの展開、奇跡のクライマックスを経て、ヤンヤンが作文を読み上げるラストシーンに、僕は落涙を禁じえなかった。

何故映画を撮るのか、と質問されたエドワード・ヤンは「多くを語らなくて済むから」と答えた。
説明を省き、状況を観察するかのごとくシーンを捉える。
一歩引いた視点は、冷静で優しい。

この映画の、イッセー尾形扮する日本人プログラマーとヤンヤンの父親との交流は、きっと誰もが羨ましくなる仲である。
イッセーが飛び入りでピアノを弾くのを、バーのカウンターで眺めるヤンヤンの父。
伊豆のホテルのロビー、また居酒屋で会う二人の光景は、既に仕事の関係を超えた信頼し合う大人の同志の姿に見える。
インタビューで監督は二人の関係を「ソウルメイト」と呼んでいた。
ソウウルメイトかあ…。

映画を観終わったとき、僕はままならぬ自分の現状を誰かのせいにしていたのではないかと、思いあたった。
大したことはできずとも、少なくとも友人は大事にしようと思った。

[おわりに…]
このブログを書き始めてまだそれほど日は経っていません。
「ヤンヤン 夏の想い出」は、ずっと先にとっておこうと思っていました。
今より文章がうまく書けるようになってから、それから力を込めて書こうと。
これほどの傑作を扱うには、失礼のないように気をつけたかったのです。
一人でも多くの人に、この作品を紹介したい。
実際、僕のような者にそんな力はないのですが、この場で紹介する限りは、自分なりに最善を尽くしたいと考えていたのです。
エドワード・ヤンという監督が亡くなったことは、僕にとって大きな損失でした。
きっと世界にとっても多大な損失であったと、信じて疑いません。


2007年07月07日

原作「自虐の詩」 ~人に4コマの歴史あり~
業田良家

自虐の詩」(19841990連載)

作者: 業田良家


※間もなく映画が公開(07年秋)ということで、今回は原作である漫画「自虐の詩」の紹介をさせていただきます。


【おはなし】

貧しい夫婦の生活ぶりと、それに至った過程。

【コメントー人に4コマの歴史ありー】

マンガで泣いてしまった。
初めてのことだった。
自分でも驚いた。

でも、この作品を「泣けるマンガ」としてのみ紹介するにはあまりに勿体ない。
なぜ泣けるのかといえば、それは笑えるからではないかと思う。
ギャグ漫画として出色の出来。
ストーリー漫画としても濃厚なドラマが楽しめる。
それを4コマ漫画でやりきったところに、この漫画の凄味がある。

読んだのは03年だったと思う。
面白いよと友人が貸してくれたのだが、しばらくは放置したまま、薄く埃がかぶってしまっていた。
「そろそろ返してね」の言葉に背中を押され、その晩僕は布団に入った姿勢で表紙を開いた。
4コマ漫画だった。
幸江とイサオの夫婦のギャグ漫画。
夫に尽す妻の健気な姿が執拗に続く。
イサオがちゃぶ台を引っくり返す場面がお決まりの4コマ目で、その反復が延々と続く。
男尊女卑の様を確信的にやっているところに妙な期待が持てたのは事実だが、上巻を読み終えた時点では、まだそれほどの満足はなかった。
今日中に読んで明日返そう。僕は更に布団にもぐり下巻に手を伸ばした。

物語は幸江の幼少期にまで遡る。
何故彼女が現在こんなにも、いわゆる不幸な女になってしまったのかと言えば、幼少期から積み重ねた不幸な境遇の連鎖にその原因があった。
不幸な星のもとに生まれた幸江は、凄絶なる貧困の中に少女時代を送っていたのだ。
父親と二人で暮らしていた幸江は、家事の一切を受け持っていた。
米の残量に一喜一憂し、借金の取り立てに来るヤクザに居留守を使った。
父親は酒を飲み、仕事もしない。

4コマ漫画でありながら、各エピソードは連なりを持っており、一つの大河ドラマへと発展していく。
反復は実に効果的だった。徐々に不幸の度合いが増し、同時に滑稽味は加速する。

この漫画の本題はこの下巻からだったのだと気づいた。
同時に、上巻で脳裏に焼き付けられた尽くす幸江の姿が、ここへきて効いてきた。
笑って読んでいると身体が熱くなってきた。布団を蹴とばして続きを読み進めた。

幸江の中学時代。
「自虐の詩」が最も充実する章である。

熊本さんという同級生は、幸江に負けず劣らず貧乏だった。
汚い身なりで、ブス。
幸江と共通項が多く、唯一の友人であった。
しかし、おどおどした幸江と違い彼女は堂々としていた。
先生にも動じない。
開き直りとすら見える、「それがどうした」といった態度。
幸江は彼女と一緒にいるときにだけ、偽りでない自分でいられた。

幸江が、女の子グループに加入していく頃から、二人の関係がねじれてくる。
見事な筆致で、幸江の心情が描かれる。
今まで無二の親友だったはずの熊本さんが、邪魔に思えて仕方がない。
一旦ほどけた友人との絆は、反動で憎悪となって幸江の内心を搔き毟る。

僕にも経験はある。
友人は入れ替わる。
すーっと別な友人へと移行する自分のいやらしさを、慙愧の念をもって思い返した。
いや、思い返すまでもない。
中学、高校時代は、それが顕著に現れるだけで、もしかすると現在でもそうかもしれない。

幸江は有頂天だった。
女の子グループの一員として、クラスにも認められた。
幸福の絶頂の中でふと見ると、熊本さんは一人で帰宅していた。
相変わらず平然としていた。
本当に平然としていたかは別として、幸江にはそう見えた。

実はもう、この時点で僕は少し泣いてしまっていた。
感傷的な描写ではなく、あくまでギャグ漫画の体裁は変わらない。
4コマという最小限の構成で、最大限の心理描写を見せる。
熊本さんとの決着の場面、更には上京する場面、名シーンが続く。

やがて幸江は、大人になった。
いろんなことがあったが、ついに今はイサオという伴侶と生活している。
妊娠した幸江は、過去のことを俯瞰で見渡す。
母親を知らない自分が、母親になる。
誰しもが母親から生まれるという神秘に、確かなる自分の形を読み取った。
生きているということに、幸も不幸もあろうかと思った。

最後の数ページに、彼女の人生の全てが透けて見える。
名作と呼ばれるにふさわしい、見事な完結。
身重の幸江が歩く姿。階段を上る姿。
高まる期待と、歓喜の再会。

ついに読み終えて、僕は嗚咽してしまった。
いくらなんでも、泣き過ぎなのではないかと思うほどだった。
でも、こんな心地は滅多にない。
少しの間、浸っていようと思った。

この漫画は一旦読み始めたなら、最後のページまで一息に読みきってしまうのがいいのかもしれない。
ただ、電車や喫茶店など、公共の場では読んではならない。
急な号泣に、周囲の人たちが驚いてしまうので。


2007年07月08日

「街の灯」 ~初笑いシンドローム~  
チャールズ・チャップリン監督

街の灯」(1931

監督: チャールズ・チャップリン
製作: チャールズ・チャップリン
脚本: チャールズ・チャップリン
編集: チャールズ・チャップリン
撮影: ロリー・トザロー/ゴードン・ポロック
作曲: チャールズ・チャップリン
音楽: アルフレッド・ニューマン/チャールズ・チャップリン

出演:
チャールズ・チャップリン
ヴァージニア・チェリル
フローレンス・リー
ハリー・マイアーズ
アラン・ガルシア
ハンク・マン
ジョン・ランド
ヘンリー・バーグマン
アルバート・オースチン


【おはなし】

盲目の花売りの娘にお金持ちと勘違いされた浮浪者のチャップリンは、彼女の目の手術費をなんとか捻出する。

【コメントー初笑いシンドロームー】

92年の大晦日。
高校一年生だった僕は友人宅にいた。
小学校高学年の頃から、家族揃っての年越しには参加しなくなっていた。
友人宅で騒ぎつつ新年を迎え、山へ登って初日の出を拝み、山頂で振舞われるぜんざいを食べて帰宅するのが毎年の恒例だった。

高校生になってから、中学までの友人たちとはあまり会わなくなった。
この年の暮れは、高校の同級生のお家にお邪魔し二人でテレビを見ていた。

ちなみにこの年のNHK紅白歌合戦の司会は、紅組石田ひかり、白組堺正章
出場者の懐かしいところで言うと、LINDBERGリンドバーグ)「恋をしようよ Yeah!Yeah!」。小野正利You're the Only」。森高千里私がオバさんになっても」。GAOサヨナラ」。
SMAP雪が降ってきた)と光GENJIリラの咲くころバルセロナへ)と少年隊太陽のあいつ)が揃って出場している。

さて、年越しの瞬間は何をしようか。
ジャンプして空中で12時を越え、「地球上にいなかった」をやろうか。
もうそんな相談も飽きてしまっていた。
ぐだぐだとテレビを眺めていたのだが、まだ年越しには四十分ほど時間があった。

停滞していた空気を切り替えるためか、友人が一本のビデオを取り出した。
「チャップリン見る?ボクシング」
そのビデオは僕が彼に貸していたものだった。
チャップリンの特集がNHKの衛星映画劇場であった際に録画していた「街の灯」。
同じクラスだった彼に、お薦めの一本として貸していたのだ。

特に僕らが気に入っていたのは、この映画のボクシングの場面。
教室でもこの話題に花が咲いた。
ボクシングの場面とラストシーンのチャップリンの表情は、今でもくっきりと脳裏にこびりついている。

チャップリンは少女の手術代をなんとか稼ぐために、ボクシングの試合に出場したのだ。
しかし、経験もない彼に到底勝ち目などない。
相手の攻撃をかいくぐるチャップリン。

サイレント映画のチャップリンは特に素晴らしい。
こういったボクシングの場面は、彼の最も得意とするところだったのではないだろうか。
人間にあんな動きができるものなのだろうか。
チャップリンと対戦相手とレフェリーの三人が、寸分の狂いもなくボクシングコントを展開する。
入れ替わり立ち替わり、あっちへ逃げこっちへ隠れ。ゴングの紐ともつれ合い、殴り殴られ、息つく暇もないほどに笑わせる。

友人がこの作品を気に入ってくれたことが嬉しく、「見よう見よう」と調子に乗った。
冒頭から観賞し始めて、いよいよボクシングの場面が始まった。
どういうことだろう。
この場面がおかしくて仕方がない。
一人で見たときよりも数倍の威力でもってチャップリンの笑いが襲ってくる。
大晦日の深夜、友人宅、二人での鑑賞、そういった状況が歯止めを失わせたのだろうか。
畳に転げて二人で爆笑した。
顔は真っ赤、お腹が痛くなり、呼吸困難になり、もういい加減に勘弁してくれという二人であったが、ボクシングの場面が終わったらすぐに巻き戻し、また同じものを見て大笑いする。
チャップリンの真顔を見るだけで、もう笑ってしまう。レフェリーが大男だというだけで、もう笑っている。

一頻りこれを繰り返し、ようやく次の場面へ向かうことにしたとき、
「あ!」
と、友人が時計を指差した。
既に時刻は12時25分だった。
笑っている間に年は明けてしまった。

あまりのことに、僕らはまた笑ってしまった。
僕はリモコンを引っ掴み、えーいとばかりに今一度ボクシングの場面に巻き戻した。
もう、再生ボタンを押す前から笑ってしまっていた。

※この作品へのオマージュとしてアキ・カウリスマキ監督は「街のあかり」を撮りました。
「街のあかり」についての記事は→こちら(07年7月23日の記事です)


2007年07月09日

「星の王子ニューヨークへ行く」 ~忘れ難きあの笑顔~
ジョン・ランディス監督

星の王子ニューヨークへ行く」(1988

監督: ジョン・ランディス
製作: マーク・リップスキー/レスリー・バルツバーク
製作総指揮: ジョージ・フォルシー・Jr
原案: エディ・マーフィ
脚本: デヴィッド・シェフィールド/バリー・W・ブラウスタイン
撮影: ウディ・オーメンズ
特殊メイク: リック・ベイカー
編集: ジョージ・フォルシー・Jr/マルコム・キャンベル
音楽: ナイル・ロジャース

出演:
エディ・マーフィ / アーキム王子
アーセニオ・ホール / セミ
シャーリー・ヘドリー / リサ・マクドウォール
ジェームズ・アール・ジョーンズ / ザムンダ国王
ジョン・エイモス / クレオ・マクドウォール
マッジ・シンクレア
ポール・ベイツ
アリソン・ディーン
エリック・ラ・サール
ルウイー・アンダーソン
カルヴィン・ロックハート
サミュエル・l・ジャクソン
キューバ・グッディング・JR
ヴァネッサ・ベル
フランキー・フェイソン
ドン・アメチー
ラルフ・ベラミー


【おはなし】

とあるアフリカの国の王子が、花嫁探しにニューヨークへやってきた。

【コメントー忘れ難きあの笑顔ー】

当時、エディ・マーフィの人気は大変なものだった。
ビバリーヒルズ・コップ84年)」と「48時間82年)」はシリーズ化されるヒット作。
テレビ放映も頻繁にあり、僕らにとっては初めて身近に感じた黒人俳優だった。

ポリスアカデミー84年)」の声帯模写をやる人と区別がつかなかったのは過去のこと。
「星の王子ニューヨークへ行く」は、エディ・マーフィ主演の、待ちに待った新作。
中学一年生(88年)だった僕は勇んで映画館へ出かけた。

一国のプリンス(あるいはプリンセス)が、下々の住む世界へ足を踏み入れるという設定は、物語の定番でもある。
王子と乞食77年)」「ローマの休日53年)」など名作も多い。
この作品も、安定した物語の進行で最後まで楽しく、気持ちのいい作品に仕上がっていた。

エディ・マーフィには、お喋りで陽気で軽い奴というイメージがあったので、大金持ちという役どころに最初違和感があった。
エディは、きっと少し偉くなったんだ!

コメディの質がこれまでと違った。
王子、エディ・マーフィの振る舞いが、世間とずれているところに笑いのポイントは置かれる。
道端で物乞いをしているホームレスに、札束をどさっと置いて行く場面がある。
あくまで平然とし、悠長な態度がおかしさを誘う。
今までにない彼の表情だった。

親の決めた結婚を拒否し、ニューヨークまで花嫁を探しに来た王子。
王子に仕える従者(アーセニオ・ホール)は、同じく身分を隠してエディを傍で見守る。
二人の関係は主従のそれではなく、仲の良い先輩後輩といった雰囲気である。
そして、むしろこの従者セミに本来のエディ的役割が与えられているような気がした。
エディ、本当に少し偉くなったんだな!

ニューヨークで出会った一人の女性に、王子はアタックする。
そこへ、父親である国王が許婚との結婚しか認めないつもりで乗り込んでくる。
うまく行きかけた二人の恋は、俄然雲行きがあやしくなってくる。
この辺りのラブロマンスのくだりも、なかなかどうして、エディ・マーフィ、堅実にやっている。
コメディアンの延長線上にいた今までの作品からすると、飛躍的に俳優としての安定感を見せている。
僕は、うれしく感じると同時に、ちょっぴり残念な気分にもなった。

ディテールをほじくったギャグも満載で大笑いし、大団円を迎えるラストシーンでは心弾み、映画はとてもおもしろかった。
そして、エディは少し偉くなった。
満足感と、一抹の寂寥感を胸に、僕は映画館を出た。
エディ、ありがとう。

僕の不安に反して、エディ・マーフィが偉くなったのは、しかし、これが最後だった。
多くのコメディアン出身俳優がシリアス路線に乗り換える中、彼は現在に至るまでその流れに乗ることはない。
あくまでバカバカしいコメディの線を踏もうとしている。
せっかく僕の不満に応えてくれたエディだったのに、何故か「星の王子~」以降は、彼の作品を見に行かなくなってしまった。
ごめん、エディ。

彼の最新出演作はCGアニメ「シュレック3」でのロバさん、ドンキー役である。
あっぱれ!



2007年07月10日

「十二人の怒れる男」 ~未成年ノットギルティ~
シドニー・ルメット監督

十二人の怒れる男」(1957

監督: シドニー・ルメット
製作: レジナルド・ローズ/ヘンリー・フォンダ
脚本: レジナルド・ローズ
撮影: ボリス・カウフマン
音楽: ケニヨン・ホプキンス

出演:
ヘンリー・フォンダ / 陪審員8番
リー・J・コッブ / 陪審員3番
エド・ベグリー / 陪審員10番
マーティン・バルサム / 陪審員1番
E・G・マーシャル / 陪審員4番
ジャック・クラグマン / 陪審員5番
ジョン・フィードラー / 陪審員2番
ジョージ・ヴォスコヴェック / 陪審員11番
ロバート・ウェッバー / 陪審員12番
エドワード・ビンズ / 陪審員6番
ジョセフ・スィーニー / 陪審員9番
ジャック・ウォーデン / 陪審員7番


【おはなし】

とある少年犯罪の裁判で、12人の陪審員たちは、彼が有罪か無罪かを議論する。

【コメントー未成年ノットギルティー】

うちの母親は当時スナックを経営していた。
スナックのママというやつだ。
僕の住んでいた小さな港町は見事に寂れていたが、それでも商店街から脇道に入るとスナックが軒を連ねていた。

スナックのママは、お客さんからご馳走になることが多々ある。
その日もお寿司屋にお誘いを受けていた母だったが、急遽お客さんに仕事が入り、とった予約に穴を空けるところだった。
「あんた行かんかね?」
中学高校の頃、僕はこういった経緯でお寿司などをお相伴にあずかることがあった。
夫婦が営む、カウンター席のみの小振りなお寿司屋さんに入った。
母は小声で
「お客さんが代金払ってくれるけね」
と言った。
この場にいないそのお客さんに僕は両手を合わせ、後は遠慮会釈もなしに注文をした。
その頃食べた、ヒラメのエンガワアジのうまさが未だに忘れられない。

斜め前のカウンターに一人で寿司をつまんでいる小肥りの中年男がいた。
僕は店に入った時すでに気が付いていた。
彼がマスターに熱く語っているのは、どうやら小林正樹監督の「人間の條件5961年)」についてだ。

母親がようやく気付き挨拶をした。
彼はすぐ近所のビデオ屋の店主だった。
他にもう一軒ビデオ屋はあったが、品揃えからいって僕は断然小肥り派だった。
店主が映画好きであることは、ビデオのラインナップからすぐに読み取れた。

彼はこちらを見てニコリと会釈したが、またマスターとの話しに戻った。
僕は一瞬ドキリとした。
ビデオ屋で彼と会話を交すことはない。
未成年である僕がアダルトビデオをレンタルしまくっていることを、彼は黙って見逃してくれていた。
ルキーノ・ヴィスコンティとエロビデオをセットで借りたりする僕を、彼は黙認していた。
まさかこの場で、その件を暴露されることはないだろうが、僕は下を向いてネギトロ巻を頬張った。

母親が彼にお奨めの映画を聞いた際に「十二人の怒れる男」のタイトルが挙がった。
12人の陪審員が討論するだけの映画だと聞き、興味が湧いた。
玉子を注文しつつ、近々借りに行こうと思った。

冒頭は裁判所。
裁判が審議に入り、陪審員たちが奥の部屋へ引っ込むところから映画は始まる。
容疑者である少年の命乞いするような視線が印象的だ。

一室のテーブルについて、12人はまずそれぞれの考えを確認する。
順番に有罪か無罪かを述べていくのだが、誰もかれもが「ギルティ(有罪)」と表明する。
満場一致で有罪に決まるかと思えたとき、ヘンリー・フォンダが唯一
「ノットギルティ」と言う。
騒然となる他の陪審員たち。
全員が有罪か無罪かで一致しない限り、陪審員の結論としては提出できない。
誰の目にも明らかなこの有罪を、果たしてヘンリー・フォンダはどうやって反論していくのか。

ヘンリー・フォンダの知的な物腰には惚れ惚れとしてしまう。
すっきりと背筋を伸ばし、有罪に息巻く他の陪審員たちを確実に説得していく。
裁判での証言をつぶさに検証しながら、有罪の盲点を突いていく。
一人、また一人と、無罪に票を入れる者が出てくる。
その過程がスリリングでおもしろい。
思わず前のめりになって中学生(88年90年)の僕はヘンリー・フォンダを応援する。

一室のみで展開されるドラマは、ともすると退屈な映画になってしまう。
舞台で好評を博した作品が映画化となり失敗するケースは多々ある。
密室からカメラが出ないとなると、背景が退屈になってしまうのは大きなリスクだ。
しかし、この映画ではそこを利点とし、息詰まる空気がドラマの熱気とともに伝わってくるようにできている。

後に知ったのだが、この映画の中で流れる時間経過は、現実の時間経過と変わらないらしい。
つまり、編集で途中を省くことをしていない。
沈黙があれば、沈黙の間だだけ、カメラが沈黙を捉える。
もはや観客は、陪審員の一員としてそこに居座っているのと同じ状況である。
このストイックな描写に、僕は完全に惹きつけられた。

12人のそれぞれの考え方、過去、家庭の状況などが、じわじわと明らかになっていく。
いよいよ有罪が少数派になるまで様子は変わった。
しかし、頑ななまでに有罪を通そうとする者もいる。
ここへ来て、冒頭の少年の表情が効いてくる。
彼は有罪なのか。しかし無罪だったとしたら・・・。

何しろよくできたシナリオである。
最後の最後まで堪能した。
こういうものをもっと見たいと思った。

翌日。
感想を述べるつもりで、僕はビデオ屋に返却に行った。
ところが小肥りの店長は不在でバイトの兄ちゃんが店番をしていた。
いつも通りに無言で返却し、せっかくなのでアダルトビデオを借りて帰った。

※脚本家三谷幸喜はこの映画をパロディ化しました。「12人の優しい日本人」についての記事は→こちら(07年7月18日の記事です)


2007年07月12日

「娘・妻・母」 ~うちはうち、よそはよそ~
成瀬巳喜男監督

娘・妻・母」(1960年

監督: 成瀬巳喜男
製作: 藤本真澄
脚本: 井手俊郎/松山善三
撮影: 安本淳
美術: 中古智
編集: 大井英史
音楽: 斎藤一郎

出演:
三益愛子 / 坂西あき
原節子 / 長女・曽我早苗
森雅之 / 長男・勇一郎
高峰秀子 / 妻・和子
宝田明 / 次男・礼二
団令子 / 三女・坂西春子
草笛光子 / 次女・谷薫
小泉博 / その夫・谷英隆
淡路恵子 / 礼二の妻・美枝
仲代達矢 / 醸造技師・黒木信吾
杉村春子 / 英隆の母・加代
太刀川寛 / 春子の恋人・朝吹真
中北千枝子 / 早苗の友人・戸塚菊
北あけみ / ホステス
笠智衆 / 公園の老人
加代キミ子 / 美枝の友人・とよ
笹森礼子 / モデル
松岡高史 / 和子の息子・義郎
江幡秀子 / 坂西家の女中・たみ
加東大介 / 鉄本庄介(和子の叔父)
上原謙 / 五条宗慶(早苗の見合の相手)
杉浦千恵 / 女事務員


【おはなし】

母親、長男、次男、長女、次女、三女、また、その配偶者らが入り乱れてのお家騒動。

【コメントーうちはうち、よそはよそー】

友人の女性に聞いた話。
彼女の母親は、とある月刊冊子の切り抜きをやっていたという。
生活を主題としたその冊子には、家計簿相談コーナーなるものが毎号掲載されていた。
投稿者は自分の家庭の家族構成と、ひと月分の家計簿を提出し「なぜうまく貯金できないんでしょう?」といった悩みを打ち明ける。
それに答えて先生が、旦那の交際費を抑えろだの、食費を減らせだの言う。
母親がこの記事を切り抜いて束で保管していたのを、帰省した際に発見したのだそうだ。

この話を僕は笑いながら聞いたが、お母様の気持ちも分からないでもなかった。

他人の家庭のことは面白い。
よそのうちの旦那の仕事と地位、妻のパートと園芸、子供らの進学状況、就職状況、じいさんの病状、ばあさんの社交ダンス。
誰しもそういったことは、多少なりとも覗き見したくなるものだ。

渡る世間は鬼ばかりという長寿ドラマがあるが、この番組について話している人の会話は、まるで隣家のゴタゴタを噂しているかのように聞こえる。
「だれそれのところのなんとかさんが、また借金しちゃって!」
渡鬼の人気の秘訣は、多分その覗き見感覚にあるのだと思う。

こういった他人の「下世話」な事象に対して首を突っ込むことに、つい最近まで僕は嫌悪感を持っていた。
そんなもんほっとけ、というスタンスであった。05年、成瀬巳喜男に出会うまでは。

洗練された下世話世界とでも言えばいいのだろうか。
成瀬監督は、社会生活を送る人々の小さな営みに照準を絞り込んで行く。
人々が生きている様を正確無比に描写する。
自分勝手、嫌味、強情、意地悪。
人のいやらしさが赤裸々に繰り広げられる。

まさか、自分にそのようなものを好む資質があったとは知らなかった。
二十代も終わりに近づき、僕も大人になったのだろう。
人間てぇもんは、いや俺っていう男は、なぜこんなにもミットモネエものなんだろう。などと嘆くことも、以前より増えている。
成瀬監督の映画を見ると、自分のことを振り返ることができる。
嫌な部分も、笑いながら、また身につまされながら見るのが本当に楽しいのだ。

この映画は、とある上流家庭での財産問題が柱となっている。
夫を亡くし、出戻りで帰ってきた長女の原節子を中心に、夫の母親と別居したい次女、父親の残した家を担保に借金をした長男、写真屋を営み不倫をする色男の二男、言いたいことをズケズケと言う三女。
それぞれが問題を持ち込み、絡み合い、家族はいよいよ危機を迎え決断を迫られる。
揺らぐ家族の絆。

全ての登場人物が生き生きとしている。
出演者が豪華だから素晴らしいのではなく、俳優たちが素晴らしい演技をするから豪華に感じられるのだと思う。

台詞がまた一々おもしろい。
夜半、布団を敷いた部屋で長男の嫁(高峰秀子)は夫(森雅之)に名案を述べる。
「お義母さんのこと、他人と思うようにすればいいのよ」
これを真剣に言うからグッと来る。

母親はリア王のように子供たちに裏切られ、チェーホフ桜の園のように彼らは土地の上で右往左往する。
がっちりと足腰の強い脚本が物語を支え、その先家族がどうなるのか目が離せない。

成瀬巳喜男の大きさは計り知れない。
これだけたくさんのエゴを一つの映画の中に収納し、どれ一つとして混乱させることなくクッキリと伝える。
それぞれの立場を尊重し、正面に向き合っている監督の勇ましき姿を僕は想像する。
人間の本質に踏み込む度胸において、この人以上の監督がいるだろうか。
普通は尻込みするか、照れてしまうかするものだと思う。

ちなみに友人の母親は、見つかった家計簿相談集を慌てて捨てちゃったのだそうだ。
もったいない。
でも、その気持ちも分かる。


2007年07月14日

「この子の七つのお祝いに」 ~どうすれば岸田は許してくれるのか~
増村保造監督

この子の七つのお祝いに」(1982年

監督: 増村保造
製作: 角川春樹
原作: 斎藤澪
脚本: 松木ひろし/増村保造
撮影: 小林節雄
音楽: 大野雄二

出演:根津甚八 / 岩下志麻 / 杉浦直樹 / 芦田伸介 / 岸田今日子

【おはなし】
とある殺人事件の真相を追っていたルポライターが死んだ。
これを同一犯の連続殺人と見た根津甚八が真犯人に迫る。

【コメントーどうすれば岸田は許してくれるのかー】

岸田今日子は狂っていた。
震える発声、薄く微笑んだ大きな口。そしてあの眼。
怨念の化身となった岸田今日子は、逃げた夫への憎悪を幼い娘に英才教育する。

小学生だった僕(82年88年)は、この映画の岸田今日子が怖くて怖くて仕方なかった。
度々テレビ放映され、その度に姉と兄と三人で、カッチコチに固まって鑑賞した。

暗い部屋の中に岸田が座っている。
アルバムをめくって、自分の若き日の姿を幼い娘に見せてる。
穏やかな口調で、ゆっくりと過去を懐かしんでいる。
娘はおとなしく写真を見ている。
貧しいながらも母子のささやかなる楽しみなのかもしれない。
すると突如、岸田の顔色が豹変する。
そこに置いてあった針を取り出し、一枚の写真に写る男の顔をめがけてカッカッカッカッカッと突く。
写真はこれまでにも何度も顔を突かれていたのだろう、どんな顔をした男なのか分からぬほどにそこだけ破れている。
岸田は、また先ほどと同じ様子に戻り、微笑みながら何事もなかったかのようにページを繰る。

僕はこの場面で、ぞぞぞぞわーと背筋が冷えた。
針の突き方が尋常ではない。
ツンツンではなく、小刻みにカッカッカッと連射するのだ。
巨匠増村保造監督の演出もさることながら、岸田の演技はその要望を大きく超えたものだったのではなかろうか。
こんなもの、子供が見てはいけない。

昨今の日本映画界では、「リング98年)」の映画化を契機に、ジャパニーズホラーと銘打って数々の恐怖映画が制作された。
この一連の作品は、大雑把に言うならば「脱・横溝正史」という側面があったような気がする。
それまで日本のホラーは金田一耕助一色であったと言って過言ではない。
ところが、横溝正史が小説に書くような、村や田舎や洋館などは時代とともに少なくなってきた。
きっと現代における恐怖があるに違いない、と作り手が模索したこの10年ではなかったろうか。

しかし、そうは言っても、日本人の遺伝子に刷り込まれた横溝的シチュエーションの恐怖は、簡単に洗い落せるものではないようで、金田一シリーズは未だにリメイクされ、映画に漫画に活躍が衰える様子もない。

「この子の七つのお祝いに」が怖い理由は、岸田のほかにもう一つある。
この映画が横溝原作ではないということだ。
正直に告白すると、このブログを書くまで、てっきり横溝ものとばかり思い込んでいた。
設定や構成は、ほとんど模倣だ。
だが考えてみると金田一が出てこない。

そう、金田一が出てこないから怖いのだ。
金田一のキャラクターは、恐ろしい出来事の中で一服の清涼剤となる。
つまり、横溝作品にはあるユーモアが「この子~」には著しく欠如しているのだ。
ひたすらに残酷で怖い。

豆腐に針を刺す岸田の場面は忘れられない。
何かブツブツ言いながら、無数の針を豆腐に刺す。
恨み辛みを述べながら、一本ずつスッスッと刺す。
豆腐に針を刺すのは、針供養である。
その行為自体が怖いはずはない。
だが、物語の流れに乗って岸田が演じると、何と不気味に見えることか。
狂気が丸出しなのではなく、正常な行為に交じって垣間見えるところが素晴らしい。
素晴らしく怖い。
小学生の僕が針供養など知るはずもなく、ただおばちゃんが豆腐に何かやらかしている、その見た目だけで充分に身がすくんだ。

僕たち兄弟は、この映画を見終わると一人で二階へ上がれなくなった。
一列に並んで階段を昇り、全ての部屋の蛍光灯を順番につけて、ようやく解散し各自布団を敷く。

後の映画やテレビドラマでも怪異な岸田今日子は見られたが、大抵の場合はコミカルな要素を含み、彼女自身が自分をパロディ化して演じている感があった。
もちろんそれもいいのだが、鬼気迫る本当に怖い岸田今日子を見たいならこの映画に尽きる。



2007年07月15日

「シカゴ」 ~二つの腹話術~      
ロブ・マーシャル監督

シカゴ」(2002年

監督: ロブ・マーシャル
製作: マーティ・リチャーズ
共同製作: ドン・カーモディ
製作総指揮: ニール・メロン/クレイグ・ゼイダン/ジェニファー・バーマン/サム・クロザーズ/メリル・ポスター/ボブ・ワインスタイン/ハーヴェイ・ワインスタイン
共同製作総指揮: ジュリー・ゴールドスタイン
原作: ボブ・フォッシーミュージカル『シカゴ』)/フレッド・エッブ (ミュージカル『シカゴ』)
原作戯曲: モーリン・ダラス・ワトキンス
脚本: ビル・コンドン
撮影: ディオン・ビーブ
美術: ジョン・マイヤー
衣装: コリーン・アトウッド
編集: マーティン・ウォルシュ
音楽: ジョン・カンダー (ミュージカル『シカゴ』)/ダニー・エルフマン

出演:
レニー・ゼルウィガー / ロキシー・ハート
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ / ヴェルマ・ケリー
リチャード・ギア / ビリー・フリン
クイーン・ラティファ / ママ・モートン
ジョン・C・ライリー / エイモス・ハート
テイ・ディグス / バンドリーダー
ルーシー・リュー / キティー
クリスティーン・バランスキー / メアリー・サンシャイン
コルム・フィオール / マーティン・ハリソン
ドミニク・ウェスト / フレッド・ケイスリー


【おはなし】

血だらけの手を洗うヴェルマ!真っ赤に染まる洗面台!
あとは、歌と踊りを楽しみましょう。


【コメントー二つの腹話術ー】

03年、僕は演劇の公演を控え戦々恐々としていた。
学生時代(95年97年)以来、久々のお芝居参加だった。
劇団というほどのものではない。
数人が集まってほとんど成り行きで立ち上げたのだが、二度公演を打っただけでその後自然消滅してしまった。

僕たちは公演ができるかどうかの瀬戸際に立たされていた。
台本は難航を極め、稽古はまるで進行せず、事態は日を追うごとに悪化していった。
自分たちの不甲斐なさに呆れ、またやり場のない怒りに苦悶した。
今思えば、誰も期待などしていないお芝居に、何故あんなにも苦痛を持ち込まなければならなかったのか理解に苦しむ。
本番まで二週間を切った段階で我々は腹をくくった。
とにかく時間を埋めろ。
短編のお芝居を三つ。その幕間に映像作品を二つ。
なんとか捻り出せ!
オムニバス形式という有難い呼び名がある。短いものならボロが出なくて済む。
本当を言うと短くてもボロは出るものなんだが。

四つはなんとかなったのだが、最後の一つがどうしても完成しない。
公演日まであと五日というとき、腹話術の短編芝居がようやく生まれた。

ミュージカル映画「シカゴ」は、楽しい作品だった。
公開後DVDで鑑賞したが、スクリーンで見なかったことを後悔した。

ミュージカル専門ではない俳優がミュージカル映画に出演することは多々あるが、これはおそらく映画の場合編集段階で、ある程度ゴマカシが効くからだろう。
スタントマン同様に、顔を見せなければダンスのプロに演じさせることもできるし、俳優のうまく格好がついた姿だけを抜粋して繋げることもできる。歌は録音したものをいくらでも修正可能だ。
これは映画ミュージカルの利点であり、醍醐味でもあると思う。
ただしフレッド・アステア のような人がいるのならば(※)、僕はそちらを見たいとは思うのだが。

リチャード・ギアは頑張っていた。
もう結構いい歳だ。
抜群にうまく踊れるわけではない俳優は表情が重要になってくる。
雰囲気である。
問題なくやりきったぜ!という顔をしてくれると、それなりに見えたりする。
リチャード・ギアレニー・ゼルウィガーは、そういう点ではしっかりと演じて見せていた。

良かったのはキャサリン・ゼタ=ジョーンズ
迫力のある存在感で、他の二人を完全に食ってしまっていた。
結構やる人なんだなと、この映画で知った。
伊達でマイケル・ダグラスと結婚したわけじゃない。
相当なタマだ。格好いい。

虚構と現実が交錯し、ショーなのか現実なのか判然としない場面が、このミュージカルのおもしろいところで、最終的に犯罪も何もショーにしちまえという発想は好きだ。

そして印象的なのは腹話術の場面。
これのことか。

参加したお芝居は、内容はともかく無事終了した。
終演後、お客さんの一人から指摘された。
「人間腹話術は、シカゴでしょ?」
僕は「シカゴ」を見ていなかったので面食らってしまった。

椅子にかけたリチャード・ギアの膝に乗るレニー・ゼルウィガーは人形のメイク。
二人は腹話術芸の掛け合いをやる。
まったく同じアイデアだ。
しかも、ハリウッド俳優はうまいこと演じる。
実に楽しい場面だ。
我々のやった腹話術芝居のなんと下品だったことだろう。
赤面ものである。

売れない芸人ナカさんとケン坊の下ネタ満載の会話。
客席から温かい失笑をたくさん頂戴した。
その腹話術を演じた友人夫婦は、懲りることなく、その後呼ばれた友達の結婚式の余興でそいつを披露したのだそうだ。
「まあまあウケたよ」とケロッとしている彼らは、まだ「シカゴ」を見ていないかもしれない。

※フレッド・アステアついて「イースター・パレード」の記事で触れています→こちら(07年9月4日の記事です)


2007年07月16日

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」 ~稀代の冷笑家~
ラース・フォン・トリアー監督

ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000年

監督: ラース・フォン・トリアー
製作: ヴィベク・ウィンドレフ
製作総指揮: ペーター・オールベック・イェンセン
脚本: ラース・フォン・トリアー
撮影: ロビー・ミューラー
振付: ヴィンセント・パターソン
音楽: ビョーク

出演:
ビョーク / セルマ
カトリーヌ・ドヌーヴ / キャシー
デヴィッド・モース / ビル
ピーター・ストーメア / ジェフ
ジャン=マルク・バール / ノーマン
ヴラディカ・コスティック / ジーン
カーラ・セイモア / リンダ
ジョエル・グレイ / オールドリッチ
ヴィンセント・パターソン / サミュエル
ジェリコ・イヴァネク / 地方検事
シオバン・ファロン / ブレンダ
ウド・キア ポーコルニー / 医師
ステラン・スカルスガルド / 医師


【おはなし】

ビョーク演じるセルマは、視力を失いかけていた。工場で働き手術費を貯めていたが、隣家の親父に盗まれてしまう。


【コメントー稀代の冷笑家ー】

ミュージカル映画が苦手だという人の多くは、さっきまで普通に喋っていた者が何故急に歌い踊りだすのか理解できないと言う。
そこに違和感を持ち、受け付けないのだと。
僕は、その違和感こそ面白いなと思う。
歌と踊りは最も根源的な芸能で、見るのもやるのもこんなに楽しいものはない。
ただ、自分はうまく踊れも歌えもしないので、専ら鑑賞する側で済ませたい。
歌と踊り、おまけに物語までつけて語ってしまおうというのだから贅沢だ。
ごった煮の楽しさはミュージカルならではである。
生の喜び、ここにあり。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を撮ったラース・フォン・トリアーという監督は、その違和感に目をつけた。
映画はリアルな物体が映るものだから、舞台とは虚構性の点で質が違う。
映画で急に男が歌いだせば、それは彼が現実に歌いだしたことになる。
だから歪んで感じとられるのだろう。
では、それを極端な妄想の形として表現したらどうなるだろう。
唐突に歌い踊るのが一人の女性の妄想の産物だったとしたら。

ミュージカル嫌いをも納得させるこの秀逸なアイデアを持ちながら、トリアー監督はその妄想を強烈な悲劇に着地させた。
セルマは善良な人物だが、数々の失策をやらかす。
社会はセルマに厳しい現実をこれでもかと突きつける。
苦境に追い込まれた彼女にとって心の拠り所は、妄想の中で歌い踊ることだった。

見ていて歯噛みするほどにセルマを取り巻く状況は悪化していく。
少しくらいの好転があってもいいではないかと思うほどに、救いがない。
その現実と相対して、妄想のミュージカルは弾けるような夢世界である。
もう何がなんだか、感情があっちへ行ったりこっちへ来たり、落ち付いて鑑賞できる代物ではない。

徹底した悲劇の積み重ねと人々の悪意でラストシーンまでやってくる。
最後はどん底に突き落とされて、エンドロール。
な、な、なんだこの映画は。
「不愉快」という言葉がぴったり。
こんなものを作る奴の気が知れない。
DVDでの鑑賞だったが、観終わってしばしハラワタが煮えくり返っていた。

ところがその後、この監督の過去の作品を続けてビデオレンタルするうちに、どうやら僕はしてやられたのだということに気が付いた。
トリアー監督は、僕に嫌われることを寧ろ喜んでいたに違いないと悟った。
全ては彼の思惑の中だった。
こんなものミュージカルじゃない!と僕が怒鳴ったところで、彼はニヤリとして「じゃあ、どういったのがミュージカルなんだ?」と答えるだろう。
僕は返答に困る。
悲劇のための悲劇は見苦しいぞ!と言っても、「じゃあ、悲劇ってなんだ?ストーリーってどういうことを指しているんだ?」と答えるだろう。
埒が明かない。
僕が彼を嫌ったとて、彼は嫌われて結構という態度だ。

彼はこれまでの作品で「映画」そのものに、様々な問いかけをしてきた。
僕たちが「普通」に見ている映画に、常に懐疑的であった。
カメラワークも、ストーリーも、彼なりの野心に満ちている。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、いやらしいまでの悲劇と感動を「ミュージカル」で、敢えて作ったに相違ない。

世に毒舌家というのがいるが、大抵彼らは毒を笑いに昇華している。
誰もが心の中で思っているそのことを、毒舌家はさらりと言ってみせる。
だから、おもしろい。
毒舌家は嫌われ者のようでいて、その実、皆から慕われることが多い。

トリアー監督は違う。
笑いに転化しないように心掛けているようにすら見える。
本当に嫌われ者である。
しかもそれを、うれしそうにしている。
実に厄介な監督である。

セルマの悲劇を目の当たりにし、「こんな負のものを認めては世界が腐る」などと憤慨したものだが、しかしこれほどにちゃんと腹の立つ作品は過去に出会ったことがなかった。
なぜいつまでも自分が立腹しているのか理由が知りたくなった。

僕はこの監督が嫌いだが、悔しいことに新作は多分また見に行ってしまう。


2007年07月18日

「12人の優しい日本人」 ~日本人の可能性~
中原俊監督

12人の優しい日本人」(1991年

監督: 中原俊
製作: 岡田裕
プロデューサー: 笹岡幸三郎/垂水保貴
企画: 成田尚哉/じんのひろあき
脚本: 三谷幸喜東京サンシャインボーイズ
撮影: 高間賢治
美術: 稲垣尚夫
編集: 冨田功/冨田伸子
音楽: エリザベータ・ステファンスカ
助監督: 上山勝

出演:
塩見三省
相島一之
上田耕一
二瓶鮫一
中村まり子
大河内浩
梶原善
山下容莉枝
村松克己
林美智子
豊川悦司
加藤善博


【おはなし】

日本に陪審員制度があったならという設定。
有罪、無罪の攻防の末、12人は一つの結論に辿り着く。


【コメントー日本人の可能性ー】

高校時代(92年95年)、演劇部に所属していた僕にとって、脚本家三谷幸喜を知ったのは大きな出来事だった。

入部したての頃は演劇そのものにまだ慣れず、大きな身振りの演技や、特有の口調にどうも馴染めずにいた。
先輩に借りて見た舞台のビデオも、どうも暑苦しさが気になった。
特に80年代からの流れを汲む小劇場の舞台は、なんというか、見ていて恥ずかしい。
これは気のせいだろうか。演劇の「笑い」のテイストは、ひと昔前のものであるように感じた。
テレビっ子だった僕には、速度が遅く見えたのだ。

そんな折り、映画「12人の優しい日本人」をレンタルビデオで見た。
東京サンシャインボーイズが舞台で上演し、好評につき映画化された作品である。
十二人の怒れる男」が大好きだった僕は、三谷幸喜も知らずにこの作品を見た。

見事なパロディだった。
映画は「飲み物の注文」から始まる。
もしか日本に陪審員制度があったなら、重大な責務をよそに先ずは各自の飲み物を何にするかに時間が割かれるかもしれない。
また陪審員のための「ガイドブック」が配布され、審議の前に条文を読み上げる決まりがあるかもしれない。
そして、形式だけの条文の音読は「どうせみんな知ってんだから」との意見により、端折られるかもしれない。

いかにも日本で行われそうな、だらしのない進行が僕はおかしくてしょうがなかった。
しかし、09年から陪審員制度が導入されるのだから、今後この映画を笑ってばかりもいられなくなるかもしれない。

最初の採決。
討論を前に、有罪か無罪か挙手で全員の立場を確認する。
このあたりは「十二人の怒れる男」をきちんと踏襲する。
ところが、12人全員が無罪に挙手してしまう。
この部屋に入って来てから、ものの数分しか経っていないのに決が出てしまった。
ここにアメリカ人、ヘンリー・フォンダはいない。
ことなかれ主義で、なんとなく片は付いた。
あまりのあっけなさに、当人たちもしばし呆然としている。
判決が出たのなら、審議は終了だ。
つまり映画も終わってしまう。

冒頭から畳みかけるように「裏切り」が続く。
「十二人の怒れる男」を前フリに、さも楽しそうにそれを裏切る小さなエピソードが連発される。
僕はこの映画が、これから見せてくれるに違いない様々な展開を期待しワクワクした。

全員が帰り支度を始めたとき、一人のサラリーマン風が手を挙げる。
彼は議論を続けるためにほとんど無理やりに有罪に一票入れる。
そんなばかな。
全員の一致がなければ決は成立しない。
ここから本題に入っていく。

いわゆるギャグとしての台詞や、12人のいかにもなキャラクター造形も面白いのだが、この映画が優れているのは議論そのものの展開だと思う。
誰が主役というわけではないので、どっちに転がるのか見当がつかない。
まさか!という驚きが要所要所に仕掛けてある。
そして、程よく脱線し常に喜劇の体裁は失わない。

12人の思惑と議論の運びがジグソーパズルのように隙間なく複雑に配置され、最終的には一本の結論へと集約される。
奇跡かと思うほどによくできている。

僕はこの映画が本来お芝居であったという事実に歓喜した。
他の演劇とまるで角度が違う。
演劇にはまだまだ魅力が潜んでいるのだろうと希望を持った。
己の勉強不足を恥じた。
日本の演劇でも映画でも、きっと面白いものは作れるのだ。
こんな人がいたのか。
三谷幸喜という脚本家の作品を追わずにはおれなくなった。

うちの母親もこの映画をいたく気に入り、
「本家を超えたねー」
と、軽々しく言い放っていた。

こういうお芝居はできないものか。
高校生ながらに、原稿用紙を広げてもみたのだがまったくマス目は埋まらない。
一行書いてみてつまらないことがすぐ分かる。
「あれがこうなって、そっちがあんなことになって、ここにどーんとあれがきて・・・」
ボンヤリとやりたいことがあるような気がしているのだが、ボンヤリはボンヤリのまま何一つ見えてこない。
やがてボンヤリと眠たくなってきて、ペンを投げ出して布団に入ってしまうのがいつもの僕であった。

※「十二人の怒れる男」についての記事は→こちら(07年7月10日の記事です)


2007年07月19日

「夏物語」 ~美人の投票箱~     
エリック・ロメール監督

夏物語」(1996年

監督: エリック・ロメール
製作: フランソワーズ・エチュガレー
脚本: エリック・ロメール
撮影: ディアーヌ・バラティエ
音楽: フィリップ・エデル/セバスチャン・エルムス

出演:
メルヴィル・プポー
アマンダ・ラングレ
オーレリア・ノラン
グウェナウェル・シモン
エイメ・ルフェーヴル
アラン・グェラフ
イヴリン・ラーナ
イヴ・ガラン


【おはなし】

夏のバカンスで海へやって来た青年ガスパールは、優柔不断さん。恋人とここで落ち合う予定なのだが、それまでにまだ数日ある。
ハンサムなガスパールは当然他の女の子と出会う。


【コメントー美人の投票箱ー】

「そらそうよ」
と母は即答した。
思いがけない回答に僕は驚いた。

高校時代(92年95年)、土曜の夜はよく夜更かしをした。
翌日が休みなのをいいことに、深夜までテレビを見て過ごした。
当時、スナックのママをやっていた母親が早い時は午前一時くらいに帰宅してきた。
それから二時、三時になるまで二人でお喋りをすることがしばしばあった。
僕が質問を投げかけ、母が返答するのが定例になっていた。
もし、空中浮遊ができたら何をするか?もし、僕が学年最下位になったらどうするか?といった程度の質問を延々と続ける。

その日僕は母親を困惑させようと思い、「世の中は美人の方が得をするか?」という伺いを立ててみた。
こたえて曰く、冒頭の発言となる。
母「どこ行っても得するわぁ」
僕「そりゃ不公平やねえ」
母「そういうもんやけ、しょうがないんよ」
僕「そうなんやねえ」
僕も母と概ね同意見ではあったのだが、親らしからぬ暴言に戸惑った。

映画「夏物語」には、三人の女の子が登場する。
ガスパールは三人それぞれに魅力を感じ、どうしたものか迷う。

ガスパールは夏休みのバカンスに海辺のホテルで一人過ごしている。
恋人レナは数日後に遅れてやってくる予定である。
部屋でギターを弾いたり、海へ出てみたり、退屈のんびりとしている。

砂浜で出会ったマルゴは、カフェで働いていた。
マルゴと仲良くなった彼は、遅れてやってくる恋人のことを打ち明ける。
自分は恋人のことを好きだが、果たして彼女が自分を好きなのかどうか判然としないのだと。
ガスパールとマルゴは音楽の話題で意気投合し、二人でフィールドワークに出かけたりもする。

そんな折、ガスパールはソレーヌというまた別な女の子に出会う。
ソレーヌはやけに積極的で、なんだか肉体関係もやぶさかでない雰囲気にガスパールは幻惑される。

そうこうしていると、恋人のレナがやってくる。
レナは自信過剰の嫌いがあり、鼻っ柱が強い。
ガスパールが自分を好きなのは当然だと思いこんでいる。

三人の女性の間を行ったり来たり。
顎に手をやり、悩めるポーズのガスパールの姿は印象的だ。

こんな他愛もない恋の話を七十代半ばの監督が撮った。
エリック・ロメール監督はフランスのヌーベルバーグ(※)の一員として活躍し、現在もなお恋愛映画を撮り続けている。
他愛もない話ばかりではあるが、驚くほど自然な演技と演出、抜群の構成力で、映画は盤石の面白さである。
他愛なさがとても良いのだ。

「夏物語」の若き男女の恋模様をあれだけ生々しく描けるのは、きっと俳優たちにアドリブ的演技をさせているに違いないと踏んだが、とんでもない、後に知ったところによるとシナリオは全てロメール自身が書き、ほぼそのまま言わせているのだそうだ。
この映画は98年頃にビデオで見たが、あまりに良くて一週間借りている間に二度見てしまった。
よくできた恋愛映画のヤキモキさせられるあの感じは、恥ずかしながら大好きである。

この映画で最も感心したのは女の子三人の顔である。
その性格にまったくピッタリな配役をしてある。
もしかすると、俳優が先に決まっていて、それに合わせてシナリオを書いたのかもしれない。
そういうことを言う彼女はそういう姿、雰囲気で、あんな姿と雰囲気を持っている彼女はあんなことを言う。
果たして「美人」の基準がどこにあるのかは定かではないが、ガスパールの優柔不断の材料の一つとして「美人問題」は間違いなく内在した。
一体どの子が可愛いのか、ガスパールの頭の中はフル稼働したに違いない。

悩めるガスパールは最終的に決断をするのだが、三者三様の女の子を、見ているこっちの方が選んであげたくなってしまった。

彼の決断が、世の中の美人にまた一票入れたことになったかどうかは、この映画を見た人が決めるのが良いと思う。

※ヌーベルバーグについては「大人は判ってくれない」の記事でも触れてます→こちら(07年6月15日の記事です)


2007年07月21日

「カリフォルニア・ドールス」~必殺技を持つ女たち~
ロバート・アルドリッチ監督

カリフォルニア・ドールス」(1981

監督: ロバート・アルドリッチ
製作: ウィリアム・アルドリッチ
脚本: メル・フローマン
撮影: ジョセフ・バイロック
音楽: フランク・デ・ヴォール

出演:
ピーター・フォーク
ヴィッキー・フレデリック
ローレン・ランドン
バート・ヤング
トレイシー・リード
リチャード・ジャッケル
ミミ萩原
ブリンク・スティーヴンス
クライド草津


【おはなし】

女子プロレスの全米巡業は過酷である。
それをタッグを組む二人の女子プロレスラーと、マネージャーであるピーター・フォーク刑事コロンボの人)のたった三人で、それも車移動でやってるのだから困難は尽きない。


【コメントー必殺技を持つ女たちー】

80年代半ば、女子プロレスのクラッシュギャルズの人気は大変なものだった。
ライオネル飛鳥長与千種のタッグチームで、レコードをリリースするなどプロレスの枠を超え活躍していた。
小学生だった僕(82年88年)も、よくテレビで観戦した。
クラッシュギャルズに対抗するはダンプ松本ブル中野極悪同盟
この二組の対戦はいつも姉と楽しみにしていた。
勢い余って姉は僕に技をかけては悦に入っていた。

僕にとって女子プロレスと言えばクラッシュギャルズ。
そして04年頃にビデオで借りて見た、このカリフォルニア・ドールズ(※)もまた、心に残る女子プロレスラーである。

華々しい女子プロレスのチャンピオンを目指して、カリフォルニア・ドールズは奮闘する。
マネージャーと三人で、ポンコツ車に乗って地方巡業を繰り返す。
日本人タッグチーム、ミミ萩原&ジャンボ堀との闘いの後、彼女らの必殺技、回転海老固め
をドールズも覚えるようにとマネージャーは命令する。
ピーター・フォーク演じるこのマネージャーは、血の気の多い男。
ドールズ二人を怒鳴りつけもするが、彼女たちを売るためには興業主に楯突いたりもする。
この人物が全編に渡って映画を引っ張る。
彼のおかげで出世もするが、彼のせいで何度も危機が訪れる。

ドールズの闘いっぷりはプロレスそのもの。
女優が演じているとは思えぬ迫力である。
セクシー且つ豪快。
サバサバしていて愛嬌のある二人。
マネージャーと激しい口論をしつつ、また同じ車に乗って移動する。
騙されてファイトマネーを貰えなかったり、いい試合が組めなかったりで、三人のどさ回りは苦難を極める。

奮闘もの映画のクライマックスによくあるのがライブのステージやスポーツの試合などで、ここで登場人物の抱えるドラマは凝縮され、それまでに培ってきたものが披露される。
観客は主人公の晴れ姿を固唾を飲んで見守る。
この映画でも、宿敵タイガーズとのベルトを賭けた一戦がクライマックスに用意されている。
そういう点では王道の筋ではあるが、しかし、並みの映画とは何かが違う。
この臨場感、リアリティ、気分の高揚は一体なんだろう。
まるで本当に観戦しているかのような心地にさせられた。

この感覚は何もクライマックスの闘いに限ったことではない。
どのシーンにもカラッと乾いた現実味が感じられるのだ。
奮闘もの映画は、ほとんどの場合「感動」の展開になる。
とうとうステージに立てた!という達成感や勝利の喜びに酔いしれるのがお決まりである。
得てして「感動」は、あざとさを伴い、見ていてお腹が一杯になる。

アルドリッチ監督は、そこをさらりと描く。
余計な情緒を映画に持たせない。
闘いは闘いとして描き、出来事は出来事として描く。

たとえば…。
ドールズは試合でレオタード姿である。
少しエッチだななどと思って見ていたら、映画中盤で泥んこプロレスをやっている。
まともな試合が組めなくて、ほとんど見世物の興行をやるはめになったのだ。
泥の中で闘うドールズは、おっぱい丸出しである。
おっぱい登場を殊更に大事として扱うことはない。
それはそれとして、シーンはどんどん進む。

もう一つ…。
マネージャーとレスラーの関係だとは言っても男女である。
三人だけでの長旅を続けていれば、それなりに恋心も芽生えたりするのだろうか・・・。
などと考えていると、次の場面ではマネージャーとドールズの一人がヤッてしまった翌朝である。
なにー!
前触れもほとんどない。
そうなることもあるさとばかりに、シーンはどんどん進む。

なぜだろう、無理にドラマチックな映画にしない突き放したような視点が、返って興奮を喚起する。
タイガーズとの試合を観戦していた僕は、クラッシュギャルズを応援していた時と同じ僕になっていた。
感動は用意されたものではなく、成行きによって自然に生まれてくる。
カリフォルニア・ドールズがタイガーズに回転海老固めを決めた時には、僕は期せずして拳を振り上げてしまった。

笑えて、興奮できて、ちょっとエロくもあって、感動が下手に湿っぽくなくて、スポーツ奮闘映画はこうあれ!という見本のような作品。
ただ、残念なことにDVD化されておりません(そんな作品ばかり取り上げてしまいすいません)。
是非ともお近くのビデオ屋さんにお訊ねしてみて下さい。

※ビデオパッケージの表記は「ドールス」なのですが、「ドールズ」とされている文面も少なくないため、両方ちゃんぽんでこの記事は書かせていただきました。


2007年07月22日

「スティング」~自分で自分は騙せない~
ジョージ・ロイ・ヒル監督

スティング」(1973年

監督: ジョージ・ロイ・ヒル
製作: トニー・ビル/マイケル・S・フィリップス/リチャード・D・ザナック/ジュリア・フィリップス
脚本: デヴィッド・S・ウォード
撮影: ロバート・サーティース
特殊効果: アルバート・ホイットロック
音楽: マーヴィン・ハムリッシュ

出演:
ロバート・レッドフォード / ジョニー・フッカー
ポール・ニューマン / ヘンリー・ゴンドルフ
ロバート・ショウ / ドイル・ロネガン
チャールズ・ダーニング / スナイダー刑事
アイリーン・ブレナン
レイ・ウォルストン
サリー・カークランド
チャールズ・ディアコップ
ダナ・エルカー
ディミトラ・アーリス
ロバート・アール・ジョーンズ
エイヴォン・ロング


【おはなし】

1930年代のアメリカ、シカゴのお話。
詐欺師がマフィアの首領をだまそうとする。


【コメントー自分で自分は騙せないー】

小学生の頃、運動が得意な男子はよくモテた。
足が速く、球技にセンスを発揮し、美しく泳ぐ彼は、格好いい。
モテる彼は、なぜか勉強もトップクラスだった。

中学高校ともなれば、運動が苦手な連中は勉学に勤しんだ。
身体も大きくなり、彼らは運動面においてもそこそこの表現ができるようになった。
運動と、勉強を見事両立してみせる彼は、よくモテた。
また、顔立ちが整った彼も色気を発揮し、女子の注目を集めた。

一貫して僕は、運動も勉強も苦手だった。
もとより美貌も持ち合わせてはいない。
そうなると残るは「おもしろい奴」のセクションしかない。
ところが、おもしろい奴に立候補する連中のなんと多いことか。
何も取り柄のない有象無象にとって、最後の砦というわけだ。
またそこに集まる者に限ってつまらなかったりする。
勉学班の奴の方が余っぽどおもしろい。

進退窮まった僕は、腕組みして考えた。
格好いい男には、なろうと思ってなれるもんじゃあない。
いや、仮に努力が結実したとして、それでも最初からモテる男には到底敵わないのが世の常。
ああ、非情。
しかし、それでも無駄なあがきをしてしまったのが現実で、人前でコントを披露したり、顔から火が出そうなことばかりが思い返される。

馬鹿みたく自意識過剰だった思春期に、僕が幾ばくかでも分をわきまえることができたのは、ポール・ニューマンのおかげだったかもしれない。
本物の格好良さに、心底憧れた。
特に「スティング」のポール・ニューマンは格別だった。
この映画が作られた瞬間、彼は世界一格好良かったのではなかったろうか。

映画序盤、若き詐欺師フッカー(ロバート・レッドフォード)が、雷名轟く詐欺師ゴンドルフ(ポール・ニューマン)を訪ねる場面。
殺された仲間の無念を晴らすため、ゴンドルフの力を借りにやって来たのだ。
ところが、最初の印象は最悪だった。
彼は二日酔いのヘベレケ。ヨレヨレのグデグデで、まるで名うての詐欺師には見えない。
人まちがいかと思うほどである。
半信半疑のままロバート・レッドフォードはこれまでの経緯を話し協力を要請する。
ニューヨークの大親分ロネガンが敵だと聞き、ポール・ニューマンは仕事を引き受ける。

さて、改めて登場したポール・ニューマン。
詐欺師ゴンドルフに着替えた彼の見違えるような格好良さ。
30年代の衣装がまた似合う。
スーツの着こなし、帽子を被る角度、姿勢から歩き方から、何もかもが完璧。
二人の大仕事が開始される。

この映画は70年代に撮られたものだが、物語の設定のみならず、映画のテイストも「古き良きアメリカ」を彷彿とさせる。
かつて映画は鮮やかだった。
70年代、古きギャング映画の面白さは、まだ人々の記憶にあったのだと思う。
心から楽しめる痛快な娯楽ギャング映画を、誠心誠意作りあげる。
そんな意気込みに満ちた、気持ちの良い傑作である。
溢れる娯楽の香りは、音楽の効用でもあるのだろう。
ここで鼻歌をお聞かせできないのが残念だが、有名なテーマ曲、その名も「エンターテイナー」は誰しも一度は耳にしたことがあるはず。
軽妙な旋律は、聞くだけで笑顔になってしまう。

二人の詐欺師の「だまし」手口は大胆且つ巧妙で、こちらはハラハラさせられっぱなし。
イカサマががっちり映画に仕組まれ、種明かしのときの快感といったらない。
そもそも映画の観客は、騙されるために映画館へ足を運びに行くようなもので、うまく騙してくれよとお金を支払っているのである。
その要望に満点のサービスで応えた映画「スティング」。

ストーリーの面白さと並走して、役者たちの魅力は最大限に発揮される。
ポール・ニューマンを兄貴分に、ロバート・レッドフォードが詐欺師の何たるかを学んで行く過程も見所である。
なんと映画的な二人組みだろう。並んでいるだけでダンディの見本市がたつ。
かっこイイ!

自分はカッコイイのだと幾度となく思い込ませようとしたが、どうも騙し切れなかった。
映画を見ればヒーローが出てくる。
ポール・ニューマンが見れるなら、それでもう充分ではないか。
もし中学生の僕(88年90年)がこの映画に出会っていなかったら、今頃は「付けてるだけでモテるブレスレット」なんぞに手を出していたかもしれない。


2007年07月23日

「街のあかり」~寒いヘルシンキ、暑い東京~
アキ・カウリスマキ監督

街のあかり」(2007年公開)

監督: アキ・カウリスマキ
製作: アキ・カウリスマキ
脚本: アキ・カウリスマキ
撮影: ティモ・サルミネン
編集: アキ・カウリスマキ
音楽: メルローズ

出演:
ヤンネ・フーティアイネン / コイスティネン
マリア・ヤンヴェンヘルミ / ミルヤ
マリア・ヘイスカネン / アイラ
イルッカ・コイヴラ / リンドストロン
カティ・オウティネン / スーパーのレジ係


【おはなし】

飲み仲間も恋人もいない孤独な警備員の男コイスティネンは、いつの日かきっと事業を立ち上げて周囲の連中を見返してやるつもりでいた。
女に騙されて刑務所暮らしをした後も、その決意は変わらなかった。


【コメントー寒いヘルシンキ、暑い東京ー】

遥か彼方、北欧の国フィンランドのことを、僕はこのアキ・カウリスマキ監督の映画でしか見たことがない。
朴訥な言葉と殺風景な街の様子。
カウリスマキ映画に出てくるフィンランドが果たしてどこまで本当のフィンランドを映しているのかは分からない。
だが、どこの国にも敗残者がいることに間違いはないのだろう。

昨日(07年7月22日)「街のあかり」を渋谷ユーロスペースで鑑賞してきた。
日曜日午前の渋谷。
朝、雨が降ったせいでいつもより人通りが少ない。
気温は上昇しつつあり、蒸し暑さにTシャツはぺったり背中に張り付いていた。
上京して12年も経つのに、いつまでもここは自分にとって場違いな土地のままだ。
渋谷に来ると、いつも厭世的な気分になってしまう。

「街のあかり」の主人公コイスティネンは警備会社に勤めている。
人付き合いが苦手な彼は、職場で仲間に疎まれている。
酒場で女に声をかけてみれば、連れの男に睨まれた。
隅っこに立っているとトイレのドアが開き、壁とドアに挟み込まれてしまった。

うだつの上がらぬ彼に目を付けたのは地元のヤクザ。
警備員と知って、親分は自分の女ミルヤを派遣する。
ミルヤはコイスティネンに接近し、立ちどころに彼の心を掴んでしまう。
目的は宝石店の鍵、暗証番号を聞きだすことだ。
到底美人とは言えない顔立ちだが、一度見たら忘れられない、実に味わい深い顔である。
このあたりの起用がいかにもカウリスマキらしい。
奸婦が必ずしも美女にならない。
人間界の機微をしっかりと捉えている。

コイスティネンには野望があった。
自分で警備会社を設立し成功を収めるつもりなのだ。
港にポツンとプレハブのソーセージ屋が建っている。
彼の計画を聞いてくれるのは、この店の女アイラだけであった。
彼女の優しさにも気付かず、コイスティネンは出会った女の話をしてしまう。

フィンランドヘルシンキを舞台に、寂しい男がみるみる転落していく様が描かれる。
夕景の街並みや、工場が望める港の風景が、しみじみと彼の不幸の伴奏となる。
どれだけ救いのない話をやっても、カウリスマキの映画は喜劇として成立する。
しれっとした演出で、人間のおかしみを表現することに長けた監督である。

やくざの女と知らずに、コイスティネンはミルヤとデートをする。
出かける前の部屋での様子が素敵だ。
皮靴を履いて、スーツのいでたち。
キッチンの引き出しを開けるとシュッと足を乗せて布巾で靴を磨く。
几帳面で誇りの高い男であることが伺える。
チャップリンではないが、孤独で貧しくとも心はピカピカな男なのだ。
また、ミルヤが初めてコイスティネンのおうちにやって来たとき、花瓶に花を活け、ベーグルを焼き、お肉もオーブンに入った状態でもてなす。
肩に手を回すことも拒まれ、彼女は早々に帰宅してしまうのだが。
そういった細やかな描写が、彼に襲いかかる悲劇をより一層切なく、おかしみを持ったものへと昇華させる。

ソーセージ屋のアイラはコイスティネンにとって唯一の救いである。
濡れ衣を着せられた裁判を傍聴し、刑務所暮らしの彼を手紙で励ました。
その想いは、なかなか彼には届かない。
出所した彼が、改めてやくざから暴行を受けたと聞き、彼女は現場に駆け付ける。
もしかしたら希望と呼べるものが二人の間に生まれるかもしれないことを予感させ、映画は幕を下ろす。

喜ばしいことではないのかもしれないが、年を経るごとにカウリスマキの映画が身近になってきた。
主人公は大抵の場合、落伍者である。
そして言い訳をせず、事態を粛々と受け入れる人たちである。
78分のこの映画の中で、コイスティネンが一度だけ笑顔を見せるのだが、それは塀の中で他の囚人たちと談笑している場面だった。
うまく社会を渡って行けなかった連中が笑顔になるのは、監獄の中だけとは皮肉な描写である。

映画館を出ると気温は更に上昇していた。
行き交う人も増え、むせ返るような湿気である。
人混みの坂を下りながら、僕はとても笑顔ではおれなかった。
コイスティネンの小さな正義感が、僕の胸の中にも灯った気がした。

カウリスマキの映画を存分に共感できる者は、多分社会的には黄色信号であったりするのだろう。
でも、人間的には青信号なのではないかと、希望的観測も含め僕は信じてみたい。

※この映画はチャップリンの「街の灯」へのオマージュだとカウリスマキは述べています。
「街の灯」についての記事は→こちら(07年7月8日の記事です)


2007年07月25日

「パルプ・フィクション」~ハンバーガーに明日を挟んで~
クエンティン・タランティーノ監督

パルプ・フィクション」(1994年

監督: クエンティン・タランティーノ
製作: ローレンス・ベンダー
製作総指揮: ダニー・デヴィート/ マイケル・シャンバーグ/ステイシー・シェア
原案: クエンティン・タランティーノ/ ロジャー・エイヴァリー
脚本: クエンティン・タランティーノ
撮影: アンジェイ・セクラ
編集: サリー・メンケ

出演:
ジョン・トラヴォルタ / ビンセント
サミュエル・L・ジャクソン / ジュールス
ユマ・サーマン / ミア
ハーヴェイ・カイテル / ザ・ウルフ
ティム・ロス / パンプキン
アマンダ・プラマー / ハニー・バニー
マリア・デ・メディロス / ファビアン
ヴィング・レイムス / マーセルス
エリック・ストルツ
ロザンナ・アークエッ
クリストファー・ウォーケン
クエンティン・タランティーノ
スティーヴ・ブシェミ
ブルース・ウィリス / ブッチ


【おはなし】

ヤクザ二人の出来事を中心に、周辺の人物たちの個別のストーリーが入り乱れる。


【コメントーハンバーガーに明日を挟んでー】

ハンバーガーは、自宅で作ると大変おいしいものができる。
ハンバーガーチェーン店のお肉は加工冷凍されたものを、鉄板で焼いている。
平たくて手早く調理できる形だ。
自宅で作る際には、まずちゃんとハンバーグを拵えさえすればいい。

アメ色になるまで炒めた玉葱を、ボウルの合い挽き肉と混ぜる。
パン粉と卵。
更に塩コショウ、ナツメグ
お好みで、ケチャップ、味噌、オイスターソース、中濃ソース、醤油などを垂らしてみてもいい。
充分にこねて楕円に形成し、中央に窪みを作ってフライパンで焼く。
ニンニクを効かせたければ、潰したものを油と一緒に加熱しておく。
程なくして、まずまずのハンバーグが焼き上がる。

ここで取り出すのは、少し奮発して買ったおいしいバンズ
オーブンレンジで軽く焙ったら、水気をよく切ったレタス、トマト、その上にハンバーグを乗せ、ピクルス(これも瓶詰を是非準備)を並べる。
ソースは、フライパンに残った肉のエキスにウスターソースとケチャップを足し火にかけたもの。
ハンバーグ自体の味を濃いめにしておき、味が足りなければソースを塗って補足するのが無難かと思う。
遠慮して具を挟んでも、普段お店で食べているものの1.5倍の高さになる。

さあそれを大口を広げて、がぶじゅりぃと頬張ってしまう。
特に一口目は遠慮なしに限度一杯に頬張る。
溢れる肉汁の旨味とレタスのシャキシャキとトマトの甘味とピクルスの酸味が渾然一体となって口中に満ち満ちる。
味のメリーゴーランド。
満足の食感。食べごたえ抜群。
幸福とは?と問われ、「ハンバーガーです」と答えてなんの差支えがあるだろう。

オーソドックスなハンバーグで構わない。
食パンで挟んでもいい。
普段お店で食べているハンバーガーが、全く別の料理に思える。

そして二口目の前に炭酸飲料をガブ飲みする。
これがやりたかった。
大学1年生(95年)だった僕が、なぜハンバーガーを作りたくなったのかと言えば、「パルプ・フィクション」を見たからだった。
飯田橋ギンレイホールで、当時話題だったタランティーノ監督の二本立て「レザボア・ドッグズ」と本作。

映画前半、ジョン・トラボルタサミュエル・L・ジャクソン扮するヤクザが、黒いケースを取り戻すため少年たちのアパートに押し掛ける。
少年たちは取引の途中で黒のケースを奪って逃げていたのだ。
アジトのアパートに乗り込んできたのは本物のヤクザ二人。
少年たちはビビってしまって声も出ない。
落ち着いた様子でサミュエル・L・ジャクソンは少年の一人が食べていたハンバーガーを手に取る。
ゆっくりと大きな口でがぶりとかぶりつく。
続いてスプライトをストローでゴブリゴブリ、ズズーっと飲み干す。
うわ!ア、アメリカだ。

この映画の魅力はアメリカの印象をズバリ描いているところにあると思う。
それも安っぽくて無様で、なんだか格好いいアメリカ像。
アメリカの軽い短編小説や、もっと言うならトムとジェリーのイメージ。
ハンバーガーを食べるサミュエル・L・ジャクソンの顔が大写しになって、包み紙の擦れる音と咀嚼する音とがアメリカ感を強調する。
スプライトの一気飲みでバーガーを流し込む、この厚顔無恥な仕業はとても日本人には描けない。
アメリカらしさを見事に誇張した場面だった。

ハンバーガーがこんなにうまそうに思えたことはなかった。
映画を見終わったら、すぐにもバーガーショップへ駆け込もう。
しかし、日本のハンバーガーはどれも小振りなものばかりだ。
あのアメリカンを味わいたいなら、そうだ、自分で作ればいいんだ。
で、試しに作ってみたところ、存外にうまかった。

この映画のアメリカ調は、ハンバーガーばかりではない。
クエンティン・タランティーノ、サミュエル・L・ジャクソン、ユマ・サーマンといった名前の語感が素晴らしい。
クエンティン・タランティーノだなんて、そんな名前があるものかと思った。
口にするだけで気持ちがいい。
サミュエル・L・ジャクソン。サミュエル・L・ジャクスン。カイル・マクラクラン。

カイル・マクラクランは出演していないが、何といってもジョン・トラボルタの登場には驚いた。
往年の形状はまったく維持されていない。はち切れた下っ腹。
ダンサーの面影は、映画中盤でユマ・サーマンと踊るところでほんの少しだけ垣間見える。
堕落という言葉がぴったりの姿に感動すら覚えた。
この映画に、スマートなトラボルタは似合わない。

アメリカのジョークのような、小話の羅列。
おもしろい話があるからまあ聞けよ、といった具合。
突拍子もない話なので、「うそつけー」と言いたくなるが、微に入り細を穿ったディテールに思わずフンフンと聞き入ってしまう。
冒頭の場面の続きがラストにあったり、時間にいたずらを仕掛けた構成も当時目新しかった。
20歳やそこらの僕などは、大喜びでタランティーノの映画遊びを楽しんだ。
いかにも90年代前半の映画。

この映画が公開された94年という年は、不景気絶頂、就職氷河期、湾岸戦争から続く終わりの見えないイラク戦争にいい加減嫌気がさしていた世の空気があった。
どうしてしまったんだ、アメリカ。何をしているんだ、日本。
飽和状態の日米に、タランティーノの与太話は痛快だった。
アメリカは下品で乱暴だ、それを笑わないでどうする、と彼は映画の中で言っているようだった。

僕の僕による僕のためのハンバーガーを食べたことは、良きアメリカに対する僕の希望と御礼だったかもしれない。


2007年07月26日

「太陽がいっぱい」~100年経ってもアラン・ドロン~
ルネ・クレマン監督

太陽がいっぱい」(1960年

監督: ルネ・クレマン
製作: ロベール・アキム
原作: パトリシア・ハイスミス
脚本: ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン
撮影: アンリ・ドカエ
音楽: ニーノ・ロータ

出演:
アラン・ドロン
マリー・ラフォレ
モーリス・ロネ
エルヴィーレ・ポペスコ
ロミー・シュナイダー


【おはなし】

トムは大金持ちのフィリップを殺害した。大金を銀行から下ろし、フィリップの恋人まで手に入れた。完全犯罪は成立するだろうか。


【コメントー100年経ってもアラン・ドロンー】

映画の中の時間は永遠に止まったままだ。
若き美貌のアラン・ドロンは「太陽がいっぱい」の中にいる。
うちの母は、団塊の世代47年49年生まれ)より少し上、この映画が公開された当時思春期の真っ只中だった。
僕が映画に興味を持ち始めた中学時代(88年91年)、しきりに「太陽がいっぱい」を薦めるのだった。

ビデオレンタルで鑑賞したが、なるほど、アラン・ドロンは絶世の男前だった。
どの角度から見ても整った顔立ちが揺るぎない存在感を示す。
甘い感じではない。どちらかというと怖い格好よさだ。
冷酷、孤独、寂寥感。

こういったナイーブさを一面に持ったハンサムガイは、今も当時も人気があるが、彼ほど完璧にそれを演じることができた俳優が、その後いるだろうか。
多くの女性が、この映画のアラン・ドロンに恋をしたのは充分に頷ける。
母は、この映画を見る度に、まだ若かった頃の自分を取り戻すに違いない。
アラン・ドロンの偉業は、47年の時を経てなお色褪せない。
現在、十代二十代の女性こそ、今のうちにこの映画を見ておくべきだと思う。
この先50年、ときめきを持てる。

アラン・ドロンはしかし、何も「太陽がいっぱい」だけに出演したわけではない。
その後も、名作に駄作に活躍している。
90年代の前半だったか、「news23」で、来日したアラン・ドロンにインタビューをした筑紫哲也が言っていた。
「日本では、いつ来てもどこに行っても太陽がいっぱいのことを聞かれるのだそうで、本人は他の作品にもたくさん出てるのにと言ってました」
これがアラン・ドロンの本音なのだろうが、この映画がよく出来過ぎていた功罪として彼にはご容赦をいただきたい。
アラン・ドロンが出ているだけではない。
映画史に残るサスペンスの傑作だと思う。

舞台はナポリ
貧乏トム(アラン・ドロン)は金持ちフィリップと、その恋人マルジュと三人でヨットに乗っている。
フィリップの父親から依頼され、ドラ息子を連れ戻すためにトムはナポリまでやって来ていたのだ。
目の前で繰り広げられる放蕩三昧、マルジュとのアツアツ振りに、トムはフィリップに対し静かな嫉妬を抱きはじめる。
露骨な台詞はなくとも、トムがマルジュに抱く恋慕はすぐにわかる。
青い空、青い海、照りつける太陽、他に誰もいない大海のど真ん中で、トムは黙々とフィリップの命令を受け入れていた。
夏の海はどこまでも静かで、強烈な日差しが時間の流れを遅く感じさせる。
大金持ちの気ままな遊びは、貧乏トムにとってはあまりにも酷であったに違いない。

映画前半の倦怠感漂うこのヨットでのシーンが僕は好きだ。
ジリジリとトムのフラストレーションが溜まっていく。
のんびりとした外界の様子とは裏腹に、トムの殺意は心のうちで徐々に発展していく。
素晴らしい緊張感である。
そして、ぷつっと糸が切れたかのように、トムは行動に出る。
二人でトランプに興じていた最中、あっと言う間もなくトムはナイフでフィリップの胸を刺していた。
見ていて思わず身体がこわばった。

映画はここから、トムの完全犯罪への挑戦を追う。
フィリップの筆跡を練習する場面は印象的だ。
ただお金のためだけに犯罪を犯したのではない。
トムはフィリップに嫉妬し、彼に成り済ますことで心の隙間を埋めようとしたのだろう。
筆跡を真似し、フィリップの恋人マルジュを振り向かせることで、自分を満たそうとした。
彼の一世一代の大仕事は、どことなくもの悲しいのだ。

そう、そして、この間もずっとアラン・ドロンはハンサムであることを忘れてはいけない。
海でも陸でも、ずっとハンサム。
表情を崩さないトムが、映画のラストでようやく微笑む。
大金を手にし、全てのゴタゴタを片づけ、恋人も手に入れ、砂浜に腰掛けてナポリの海を満喫している。
思わず胸が締め付けられる見事な終幕は、ただの犯罪映画にはない情感に満ちたものだった。

サスペンス映画の緊張と、青春映画の情動とが巧みに融合した作品。
「太陽がいっぱい」とアラン・ドロンの幸運の出会いを堪能した。

団塊の世代近辺の男性諸氏は損をしている。
アラン・ドロンと比べられてはかなわない。
いや、実際は比較するなんて、女性たちは考えにも及ばなかったかもしれない。
父に「お母さんに薦められて太陽がいっぱい見たよ」と報告したが、この顔、アラン・ドロンとは似ても似つかない。
パンツ一丁でうろついている姿は、せいぜい「太陽がしっぱい」といったところだった。


2007年07月27日

「シコふんじゃった。」~受験の土俵に乗るのだ~
周防正行監督

シコふんじゃった。」(1992年公開)

監督: 周防正行
製作: 平明暘/山本洋
プロデューサー: 桝井省志
企画: 島田開/石川勝敏
脚本: 周防正行
撮影: 栢野直樹
美術: 部谷京子
編集: 菊池純一
音楽: 周防義和
助監督: 高野敏幸

出演:
本木雅弘 / 山本秋平
清水美砂 / 川村夏子
竹中直人 / 青木富夫
水島かおり / 朝井知恵
田口浩正 / 田中豊作
宝井誠明 / 山本春雄
梅本律子 / 間宮正子
松田勝 / 堀野達雄
宮坂ひろし / 北東のケン
片岡五郎 / 主審・林
六平直政 / 熊田寅雄(ob)
村上冬樹 / 峰安二郎(ob会会長)
桜むつ子 / 穴山ゆき
柄本明 / 穴山冬吉

【おはなし】

本木雅弘演じる山本秋平は、大学を卒業するため卒論指導の教授を訪ねた。柄本明演じる穴山教授は、授業に出席していなかった秋平に、卒業させてあげる代わりに相撲部員として試合に出ることを命令する。かくして秋平は部員集めから試合まで相撲部として活動することを余儀なくされる。


【コメントー受験の土俵に乗るのだー】

NHK衛星放送の映画情報番組で、おすぎがこの映画のことを褒めていた。
当時おすぎは、今よりもずっと辛口の映画評を発表していた。
その彼が、もとい彼女が、いや彼が、絶賛するからには余程のことだろうと映画館へ足を運んだ。
古くて広いその映画館に、観客は15人ほどしかいなかった。

中学を卒業した91年の春から翌年の春まで、僕は一年間の浪人生活を送っていた。
通常、浪人生と言えば大学受験を目指す者のことを指す。
僕は、高校受験に失敗し中学浪人という珍しい境遇にあった。

大学の受験生を迎える普通の予備校の一番端の教室に、高校受験クラスという張り紙があった。
その予備校では、九州でも数少ない中浪(ちゅうろう、と呼ばれてました)のクラスがあった。
その一年間、勉強漬けになれば良かったのだが、どちらかと言うと僕は映画漬けの日々を送った。

シコふんじゃった。」に登場する大学のイメージは、高校にすら行けていない僕にとって羨望の地そのものだった。
緑のある広々としたキャンパス。
自由な時間と気ままな服装。
行き交う若い男女。
大人として認められている上に、まだ学生だからという遊びの猶予も残されている。
ほとんど極楽に思えた。

物語の主人公秋平は、正に今時の学生。
抜け目なくやり繰りした結果、既に内定まで獲得している。
あとは卒業するだけだったのだが、穴山教授の一計で心ならずも相撲部に入部することになる。

学生を仰望する反面、僕にはいささかの嫉妬もあった。
のんびりしやがって、と難癖を付けたい思い。
だが、この映画では、そんな学生が本気で一生懸命になるまでの過程が描かれていた。
相撲を通して、彼らが成長や変化を遂げるところが映画の軸となっている。
痒いところに手の届く展開だった。
なんというか、中浪の僕が言うのもおこがましいが、よく心得た映画だと思った。

試合に出るためには5人の部員が必要である。
竹中直人演じる大学8年生の青木と共に仲間探しが始まる。
相撲はまわし姿にならなくてはならない。
精神論が横行し、とても学生に流行るスポーツではない。
やっとこさ集まったのは、
ただデブだからという理由で勧誘した田中(田口浩正)。
家賃がかからない相撲部寮に釣られた留学生スマイリー。
相撲部マネージャー(清水美砂)が目当ての春雄。

どうしようもない集団が勝利目指して奮闘するのは、60年代70年代にアメリカ映画でよく撮られた。
周防監督自身、「がんばれ!ベアーズ76年)」をやりたかった、と語っている。
清々しいアメリカ映画の娯楽性を、実にうまく日本の設定に置き換えてあった。
公開された92年の映画界はどん底の不景気で、特に日本映画の失墜が目に余る最中、「シコふんじゃった。」の完成度の高さは僕にとって衝撃だった。
大抵の邦画が有する、しみったれた感じがなかった。
サクサクと物語は進行し、登場人物が有機的に行動を起こす。
過度に情に訴えるようなこともせず、相撲そのものの面白さも伝える。

映画の中盤あたりで、客席から煙があがった。
僕の10列ほど前にいたおっさんが煙草を吸い始めたのだ。
当時、僕は何度か客席で煙草を吸うおっさんを目撃している。
今ほど喫煙規制が厳しくなかったとはいえ、さすがに客席で吸うのは御法度である。
客も少ないし、まあ仕方ないか、と僕も慣れたものだった。

映画はいよいよ盛り上がってきていた。
宿敵、北東学院大学との対戦。
秋平と北東のケンの一番で勝敗が決まる。
秋平は相撲部から学んだことを試合で発揮した。
それは辛抱や我慢という言葉で映画では描かれていたが、つまり人生において重要な人としてこうあるべきだという真理のようなものだったと思う。
秋平は何かを掴み、北東のケンにも勝利する。

その時、客席から今度は拍手があがった。
煙草のおっさんが手をたたいて秋平の勝利を称えていたのだ。
つられて、周辺にいた他のおっさんも二人ほどが拍手をしていた。
映画館で拍手が起こったのは、これまでに二度しか経験したことがない。
一度目は「E.T.」※、そしてこの「シコふんじゃった。」。
僕はまんざらでもない気分になった。
その映画が確かにおもしろい映画だということを、映画館で他人と共有できるのは素晴らしい体験だと思う。

「シコふんじゃった。」の登場人物たちは、奮闘の末、勝利を手にすることができた。
そして、次なる挑戦へとそれぞれの道を歩み出す。
秋平が一人土俵にいるところへ、マネージャーが現れる。
二人向き合ってシコを踏む。
マネージャーの「とうとう私もシコふんじゃった」という台詞でエンドロールが流れる。
バシッと映画は終わった。
語り残しが一つもない。おもしろかった。

映画を見終わった僕は、勇気付けられていた。
当面の目標は高校に合格することだ。それ以外にない。
この一年間というもの、授業には出席せども、ほとんど勉強をしてこなかった。
受験日は、数週間後というところまで迫っていた。
ここへきてようやくのこと。
「とうとう僕も勉強しちゃった」で、問題集を解いた覚えがある。

※「E.T.」で拍手が起こったことについての記事は→こちら(07年6月14日の記事です)


2007年07月30日

「エイリアン」~平安の今日、エイリアン~
リドリー・スコット監督

エイリアン」(1979年

監督: リドリー・スコット
製作: ゴードン・キャロル/デヴィッド・ガイラー/ウォルター・ヒル
製作総指揮: ロナルド・シャセット
原案: ダン・オバノン/ロナルド・シャセット
脚本: ダン・オバノン
撮影: デレク・ヴァンリント
特殊効果: カルロ・ランバルディ
編集: テリー・ローリングス/ピーター・ウェザリー
音楽: ジェリー・ゴールドスミス

出演:
シガーニー・ウィーヴァー / リプリー
トム・スケリット / ダラス船長
ジョン・ハート / ケイン
ヤフェット・コットー / パーカー
ハリー・ディーン・スタントン / ブレット
ヴェロニカ・カートライ / ト ランバート
イアン・ホルム / アッシュ
声の出演: ヘレン・ホートン / “マザー”


【おはなし】

宇宙船に侵入してきたエイリアンが、一人また一人と乗務員を襲って行く。


【コメントー平安の今日、エイリアンー】

二年前の衆議院選挙で自民党が圧勝したのは、まだ記憶に新しい。
一転して、この度の参議院選挙では、民主党が大幅に議席を伸ばした。
ありゃまー、と呆れてしまうほどにひっくり返った。
様々な要因がこの結果を招いているのだろうが、果たして有権者にとっての判断の基準というのはどこにあるのだろうか。

政治のことを「まつりごと(政)」と呼ぶのは、言い得て妙である。
お祭りが政治なのかもしれない。
かつて日本では仏閣を建立することで世の人々の不安を取り除こうとした。
また庶民は豊作を祈願し、天変地異を畏怖し、祝祭を行った。
お祈りすることで、気分は随分と変わるはずである。
不安は和らぎ、また明日からも生きて行ける。
大事なのは気分であり、雰囲気である。

国民は、有権者は、日々不安に苛まれている。
なんとなくででも、この現状を打破する雰囲気が欲しい。
ひとつ気の利いた祭り事を頼むぜ、といったところだ。

エイリアン」で、登場人物は一人づつエイリアンの餌食となっていく。
宇宙船内のどこにエイリアンがいるのか、探知機を持ってしても容易に見つけることができない。
動きが俊敏で、また隠れるのがうまい。
自宅に巨大強暴ゴキブリがいるとご想像願いたい。
いるのは分かってるが、姿が見えない。
見つかった瞬間、もう襲われてしまう。
普通のゴキブリでさえ、一旦目にしたら、完全に退治してしまわない限り不安で眠れないものなのに、エイリアンはこちらの生命まで狙ってくるのだ。
こんなに恐ろしいことはない。

乗務員たちは、未知の敵に対してそれぞれの見解を述べ、対立する。
何しろ自分の生命が関わる問題だから、必死である。
この映画の見所の一つは、個々の危機管理能力を観察できるところにある。
命の危険が迫ったとき、どうすれば助かるか。
その決断をするのは大変に難しいことだと思う。
現にこの映画でも、ことごとくが判断を誤り、無残な姿となってしまう。

これが映画で良かった。
先日、僕はお茶の間でこの映画をDVDで久々に見直していた。
もし、この宇宙船の中に自分がいたとして、一体まともな行動ができるだろうか。
この乗務員の中の誰を信用し、その決断に従うだろうか。

逃げている最中、分岐点にさしかかったとする。
艦長が「右だ!」と叫び、リプリーが「左よ!」と僕の腕を引っ張り、アッシュが「そのまま前進だ!」と背中を押す。
ここで僕は、誰かに投票しなくてはならない。
右か、左か、前進か。
安心の雰囲気があるのは艦長かもしれないが、果たしてそれでいいのだろうか。
重要なのは雰囲気や気分ではなく、現前の事象、及び将来的な観測に対し的確な判断があるのかを見極めることだろう。

となると、誰を信用するとかいう次元ではなくなる。
僕の判断で、責任を持って行動しなくてはやってられない。
「後ろだ!」と逆戻りしてみるかもしれない。
エイリアンがどこに出没するかは分らない。
だが、誰かは襲われ、誰かは助かる。
ああ、後ろに振り向いた途端、頭上からエイリアンが飛びついてきたらどうしよう…。

攻防はエイリアンとの間にあるだけではない。
疑心暗鬼に囚われた隊員同士の中でも厳しい闘いが起こる。
どちらも恐ろしい。
リドリー・スコット監督は、濃密な人間同士の駆け引きをこってりと描写している。
単なるSFホラーの味わいだけではない緊張感が映画を盛り上げている。

まだCGの時代に入る前の作品なので、宇宙船やエイリアンの実在感が素晴らしい。
優れたデザインは、美術品とも言えるほどだ。
画面を見るだけでも、得した気分になった。
どちらかと言えばCG肯定派の僕ではあるのだけれど、手作りの美術の迫力を失うことには絶対反対である。
本当にそれがそこにあるのだということを、観る者全てが実感して、ようやく映画世界は成り立つ。

本当にそれがそこにあることを認識するには、作り手だけでなく、観客(多くは有権者)がしっかり想像力を発揮することも不可欠だとも思う。


2007年07月31日

「バタリアン」~ゾンビのごとく~     
ダン・オバノン監督

バタリアン」(1986年公開)

監督: ダン・オバノン
製作: トム・フォックス
原案: ジョン・ルッソ/ルディ・リッチ/ラッセル・ストライナー
脚本: ダン・オバノン
撮影: ジュールス・ブレンナー
音楽: マット・クリフォード

出演:
クルー・ギャラガー
ジェームズ・カレン
ドン・カルファ
トム・マシューズ
ビヴァリー・ランドルフ
ジョン・フィルビン
リネア・クイグリー
ジュエル・シェパード


【おはなし】

アメリカ、ロサンゼルスのとある研究所にある謎のタンク。
詰まっていたガスが噴き出すと、死んでしまった生物が蘇ってしまった。
このゾンビは人間を食べるだけでなく賢くもあり、手がつけられない。


【コメントーゾンビのごとくー】

80年代の終わりから90年代にかけて、「オバタリアン」という4コマ漫画を堀田かつひこが描いていた。
この漫画と直接関係があるのかどうか分からないが、一部の図々しい行動をとるおばさんのことを、「オバタリアン」と呼ぶマスメディアが登場した。
「オバタリアン」は89年流行語大賞に選出された。

およそ10年の時を経て、97年頃。
今度は、路上などにお尻を付けて座ってしまう一部の若い人々のことを「ジベタリアン」と呼称するメディアが出てきた。
菜食主義者、ベジタリアンをもじった言葉とも取れなくもないが、社会的なマナーに欠ける人物を指すことから言っても、オバタリアンから派生した語であると考える方が自然だ。

不思議なもので、言葉が誕生してから、その対象となる人やものが世間に増加することがある。
名前を与えられたことで、存在意義を持ってしまうのだろうか。
ジベタリアン増えたなー、と意識してしまうことで今まで目に入らなかったものが認識され、増加の印象を手伝っているのかもしれない。

さて、これらの語源をたどると「バタリアン」に行きつく。
おばさんとバタリアンをくっつけてオバタリアンは完成している。
さらに。
この映画の原題は「THE RETURN OF THE LIVING DEAD
映画史上初めてのゾンビ映画「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」のパロディとして制作されたものだ。
それを、日本の配給会社がキャッチーなタイトルを考案し「バタリアン」と名付けた経緯がある。
battalionとは大軍、大隊といった意。
バタリアン本来の意味とは別に、日本人にはおかしみのある語感として浸透してしまったのが、その後の流行語路線を辿る結果を招いたのかもしれない。
つまりこの時点で既に、造語の作為があったのだ。
配給会社の狙いとしても、コメディ色の濃いスプラッターホラーを売り出すにあたって、それとなくバカバカしい題名が必要だったと思われる。

この映画は、僕が小学生の頃(82年88年)、頻繁にテレビ放映された。
コミカル調に念を押すかのように、登場するゾンビたちにはわざわざ名前が付いていた。
女性のゾンビ、「オバンバ」。
オバンバは上半身だけのゾンビでベッドに括り付けられてしまう。
しわくちゃで干からびていて気持ち悪いのだが、あんまり怖くはない。

「脳みそ…。脳みそ…」と呟きながら襲ってくるのは「タールマン」。
ぐらぐらと揺れながら不安定な歩行で近づいてくるが、これも大して怖くはない。
タールマンの歩き方が面白かったので、翌日からマネをして遊んだ。
「ノウミソ…」と言いながらふらふら近づき、同級生の頭に思いっきり噛みつく。
友人が「いて!」となったところで、大笑いするだけの遊び。
みんなタールマンをやりたがるものだから、噛まれる者が不足する。
仕方なくタールマン同士が相手の頭を狙い合う競技へと変わって行った。

「オバンバ」「タールマン」という呼び名は、テレビ放映の際、字幕でご丁寧に紹介されていた。
登場したとき「ジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)」と出るのと同様に、「オバンバ」と名前が出ていたのだ。
バタリアン、オバンバ、タールマン、これらのネーミングが、この映画の印象を支配していた。
ふと口にしたくなる言葉の面白さを上手に表現していると思う。
事実、愛らしいキャラクターネーミングに当時僕は虜になってしまった。

また、「バタリアン」はゾンビ映画としても優れた出来栄えだった。
それまでのゾンビと違うのは、彼らに知能があるという点。
家の外にはゾンビが溢れかえっている。
警察に電話をしたが、到着したパトカーが襲われてしまう。
ゾンビの一人がパトカーに近づき、無線を使って応援を呼ぶ。
次の餌を呼び出したというわけだ。

ゾンビは人間を襲い、襲われた人間はゾンビになる。
とめどなく繁殖を続ける。
ゾンビ現象のおもしろいところだ。
死ぬわけではない。
ゾンビに生まれ変わるところがミソである。

死への恐怖とも違う。
今ある自分が別のものになってしまう恐怖である。
人間でいるということは、言いかえるならば、正気であるということだと思う。
正気を持った者は、みるみる減っていく。
世間にゾンビは蔓延し、正気でいることの方が困難になってしまう。

そしてあれからまた10年の時が経った。
バタリアンはまだまだ死なない。
そろそろ「~タリアン」を使った言葉が世にはびこるのではなかろうか。
油断すると僕も使ってしまうのかもしれない。

田舎風居酒屋を好む中高年男性「炉ばたリアン」。
人見知りで無口な若者「口べたリアン」。
観光客の少ない温泉宿を好む「ひなびたリアン」。
な、なんだ。ろくなのが思いつかない。
造語って難しいですね。


2007年07月

●前に書いた記事は2007年06月です。

●次に書いた記事は2007年08月です。

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