【コメントー間の悪い男たちー】
「間が悪い」ことは罪であろうか。
人は誰しも人生で一度は「間の悪い」ことをやらかし、赤面する。
またそのことが、人間関係に重大な影響を及ぼすケースすらある。
「間の良さ」は、もしかすると社会を渡っていくための最も有効な武器なのかもしれない。
だが僕は、「間の悪さ」をあえて悲劇とは読まず、喜劇として捉えたい。
小学6年のときの夏休み(87年)。
当時、クラスの男子連中でモデルガンが流行していた。
うちはおもちゃを買ってもらえない家庭で、しかもお小遣いが大変乏しかったため(月に500円だった)いわゆるちゃんとしたモデルガンというものを持っていなかった。
うちにあった唯一の銃は、兄と二人で兼用の、もらい物。
華奢な作りで、銀玉鉄砲のようなちゃちな代物だった。
各自手持ちのモデルガンにBB弾という小さな弾を装填し、サバイバルゲームに興じていた。
通常モデルガンと言えば、エアガンあるいはガスガンのことを指す。
金持ちと尊敬されていたある友人は、連射式(200発だったと思う)の自動小銃なんかを持っている。
こっちはリボルバー風の一発一発ハンマーを引いて、最大5発までしか撃てないおもちゃ。
シリンダー(弾をこめる蓮根みたいなあれ)もガタがきていて、飛距離などお話にならない。
ともかくも黒いL字型のものを手に握って、なんとか格好をつけなければサバイバルゲームに参加できないので、恥を忍んで「うちの銃」を持参していた。
自動小銃は、皆の憧れの的で順番に少しずつ触らせてもらったりしていた。
サバイバルゲームといっても、山奥で戦争ごっこをするわけではない。
適当なチームに分かれ、近所を走り回って撃ち合うだけのもの。
ゲームの始まりも終わりもよく分からない、実にアバウトな遊びであった。
と、その日、一通り撃ち合い(ほとんど追いかけっこ)を楽しみ、なんとなく皆が集まってそろそろお開きかという間際に、かの自動小銃が路肩に置いてあった。
人気の自動小銃は誰かがいつも使っていたので、その時まで僕は一度も触ることができていなかった。
駆け足で飛びつき、両手にズッシリと構え、そこにいた連中に声をかけた
「ちょっと、そこ空き缶立ててや、撃たしてこれ、そこ空き缶」
嬉しくて笑ってしまうほどの感激で、とにかく一度撃たせろと、はしゃぎながら皆に呼びかけるがそこいた8人全員が僕のことを無視する。
「ちょう、空き缶置いてっちゃ、そこ、ねえ」
いくら言っても彼らは視線を逸らすかのようにして無言を貫く。
「こら!」
と突然、僕の脳天に鼓膜が破れるかと思うほどの大声が降りかかってきた。
ビクンとなり振り返ると、年の頃四十といったおっさんが腕組みをして鬼のような形相で僕のことを真後ろから見下ろしている。
これは決していい按配ではない。
きっとこのおっさんは怒っているのだろう、と心の中で思う。
「小さい子供らに弾が当たったら危ないやろうが!」
友人達に目を戻すと、彼らはさっきから弾拾いをやっていたのだった。
僕が来る前に、既に怒鳴りつけられていた連中は、弾拾いをして反省の態度を示していたのだろう。
そこへ何も知らぬ僕が闖入し、自動小銃しか目に入ってないものだからおっさんには気付かず、このような全く「間の悪い」ことをやらかしてしまった次第である。
「・・・すいません」と小声で謝罪し、僕も慌てて弾拾いに参加した。
おっさんが家の中へ帰って行ったのを見届けてから、皆こらえていた笑いをドッと吹き出したのであった。
「椿三十郎」は、実に「間の良い」映画である。
物語の運び方、演出、音楽、その他全ては、一点の無駄もなく構築されている。
奇跡かと思うほどの完璧な「間の良さ」で成り立ったこの映画は、見ている者が、いま自分が見ていること自体を忘却してしまうほどに、ひたすら面白い。
冒頭は夜の林、九人の若侍が木々に囲まれたとある社殿で話し合いをしている。
政府の汚職に敢然と立ち上がるべく息巻く若侍の前に、一人の素浪人(三船敏郎)が現れた。
たまたま社殿の奥で寝ていた彼は、若い侍達の密談を聞いてしまった。
全くの部外者であるこの浪人は、正義に満ちた若侍達の計画がいかにずさんであるかを指摘し始める。
若侍が信頼する大目付こそ不審だと浪人は見抜き、外の様子を窺う。
すると案の定、若侍達を一網打尽に摘んでしまおうと、汚職の黒幕大目付は大勢の侍で社殿を取り囲んでいる。
慌てふためく若侍は思わず抜刀する。
しかし浪人は落ち着いた様子で、彼らに刀をしまうよう言いつける。
大目付菊井の手勢が正に斬り込もうとした刹那、中から一人の素浪人が欠伸をしながら登場する。
社殿からは若侍が忽然と姿を消している。慌てて中を探す大目付の配下たち。
他人のねぐらに土足で上がる奴があるか!と浪人は侍たちを瞬く間に数人殴り倒してしまう。
軍勢を指揮する室戸半兵衛(仲代達也)は、浪人の強さに感心し、さっさと退却を命じる。
騒ぎが去った後、社殿の奥の床下に隠れていた九人の若侍は、床板から顔を覗かせて、なんとも「間の悪い」表情をしている。
三船浪人が、この映画において絶対的に「間の良い」人物として描かれるのに対し、九人の若侍は徹底的に「間の悪い」者として扱われる。
「間の悪い」お城勤めの若侍が、どこの誰かも知れぬ浪人から「間の良さ」を学んで行く映画と言っても過言ではない。
九人の中には加山雄三、田中邦衛の顔もある。
九人のリーダー格である加山雄三が、どうかすると長嶋一茂に見えてしまう瞬間があり、そのことからもこの侍達がいかに「間の悪い」連中であるかをご理解いただけると思う。
拉致された奥方と姫様を三船浪人が救い出した辺りから、この映画は柔らかいユーモアの色合いを濃くして行く。
前作「用心棒」(※)のヒットを受けて制作された三十郎映画「椿三十郎」は、またしても痛快無比の娯楽時代劇。
三十郎を演じる三船敏郎の魅力大爆発を満喫できる。
続編に傑作なしという世の常を、見事に一蹴してみせたアクション喜劇である。
この映画に「間の良い」人物は三十郎の他に二人登場する。
一人は映画の終盤にワンシーンだけ顔を出す城代家老。
今一人は仲代達也演じる室戸半兵衛。
三人はそれぞれの生き方や間合いを持ち、その立場を貫くが故に、手を組むことができない。
互いに互いを認め合いながらも、とうとう決別する他ないのが、なんとも粋である。
映画のラストは、三十郎と室戸の対決に至るのだが、この場面を言葉で説明することはできない。
なぜなら、「椿三十郎」のシナリオに、この闘いはとても筆では書けない。と黒澤明自身がそう書いているのだから。
長い恐ろしい間があって、勝負はギラっと刀が一ぺん光っただけできまる、としか書かれていない。
あとは撮影現場で考えようというスタンスで臨んだらしい。
そして、この対決は日本映画史に燦然と輝く、究極の「勝負」となったのである。
この映画をビデオレンタルした中学生の僕は、両親が共働きなのをいいことに、居間を占領して鑑賞していた。
当時僕にとって黒澤明はヒーローであり、三船敏郎は現在進行形の大スターであった。
トイレを済ませ、軽く喉の渇きを癒し、部屋の灯りを消し、ヘッドホンをかけ、テーブルに腰掛けて、視界にピッタリと画面を収め、この映画の一瞬とて見逃すまいと、勉学にはまるで発揮しない集中力を全身全霊「椿三十郎」に傾けていた。
緩急自在のストーリーテリング。
殺陣あり、知能戦あり、笑いあり。
ただ心地好い映画のリズムに身を委ね、いよいよ僕は、ラストシーンへと辿り着いていた。
至近距離で対峙する三十郎と室戸。
懐手した三十郎が両手を袖からスッと出してから、実に23秒(中学生の僕はその後何度も見直し自分の中でカウントしました)、二人が微動だにしない静かな長い間があり、ハッとする暇もなく決着がつく。
23秒の静止状態に、僕までもが一緒になって静止していた。
息をこらし、緊張は頂点に達していたとき、居間の襖を無造作に開ける音がした。
父「おお、おったんか、電気消してぇ。何見よるんか?」
ああ、なんと「間の悪い」父であることよ。
よりによって今、このタイミングを見計らって帰宅することはないのに!
猛然と振り返り、「ごめん、今映画見よる!」と怒鳴った僕はすぐに画面に視線を戻した。
かろうじて勝負の瞬間は目撃できたものの、しかし、きょとんとした父の顔を背後に感じながら観るには、この場面はあまりにも素晴らし過ぎた。
「間」は肝心である。
「間の良さ」は社会にとって有益なものであると、誰しも信じて疑わない。
しかし「間の悪さ」は、きっと笑えるのであります。
椿三十郎では、「間の悪さ」が必ずしも排斥すべきものではないことを、喜劇調で丁寧に語ってある。
黒澤自身、命がけで「間の良さ」を追求した映画人生だったからこその、ある到達点だったのかもしれない。
※前作「用心棒」について書いた記事です。当時は三十郎のモノマネばかりしてました→こちら(07年6月13日の記事です)