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2009年01月 に書いたもの

2009年01月06日

「復讐するは我にあり」~大人絶滅の危機~
今村昌平監督

復讐するは我にあり」(1979年

監督:今村昌平
製作:井上和男
原作:佐木隆三
脚本:馬場当
撮影:姫田真佐久
美術:佐谷晃能
編集:浦岡敬一
音楽:池辺晋一郎

出演:
緒形拳
三國連太郎
ミヤコ蝶々
倍賞美津子
小川真由美
清川虹子
フランキー堺


【あらすじ】
指名手配されている連続殺人犯榎津巌の逃亡生活を追うと同時に、神父である父親との確執がこってりと描かれる。


【コメント-大人絶滅の危機-】

08年桑田真澄に続いて清原和博もプロ野球を引退した。
清原和博の「男の花道」、引退セレモニーをチラッとテレビで見ることができた。
清原ゆかりの人たちが登場し彼の引退を惜しみ、最後、清原本人がファンへの感謝をマイクに向かって演説した。
これほど大々的なプロ野球選手引退セレモニーも珍しい。映像で知る限り長嶋茂雄の引退セレモニー以来の盛況ではなかったろうか。
清原が切々と語る感謝の言葉を聞きながら僕は一つの違和感を感じていた。
長嶋茂雄はもちろんのこと、かつてのこういう立場にあった人達はもっと「大人らしく」挨拶を述べはしなかったろうか。
「番長」というあだ名でマスコミに呼ばれた清原であったが、事実高校生のようにたどたどしい挨拶は、彼の少年性を象徴していた。
清原の人気は、素晴らしい成績もさることながら、この大人らしくないキャラクター、愛嬌にあったのではないかと思う。
ドラフト直後の涙、巨人を倒しての日本一直前の涙、横浜大魔神佐々木の最後の対戦相手としての涙、引退式の涙。
涙に彩られた彼の野球人生に僕はずっと魅せられてきた。
人目を憚らず袖口で涙を拭う野球少年の姿を、彼に見ていた気がする。

清原が大人らしくないことは、特に社会に反することではない。
ある世代を境に「大人」は激減しており、大人でないことは至極当然のことになってしまった。
映画も音楽も小説も、おそらく企業も政界も、どの業界、どの分野でも、大人であることの方が不自然だとする風潮があるような気がしてならない。
あまりにも多くの子供を抱えた世界で、大人の存在は貴重価値を増している。そんな中・・・。

緒形拳が亡くなった。

緒形拳は紛れもない大人だった。
僕のイメージする大人とは、厳しい人である。例えば子供を叱りつける人である。
子供にとって大人は脅威であり、つまり怖い存在なのだと思う。
また、エロさも重要な大人らしさだと思う。
大人の黒光りした色気に、子供は縮み上がるのである。

映画「復讐するは我にあり」の緒形拳は、怖い大人であり、尚且つエロい大人である。
日本を震撼させた実際の事件を元に作家佐木隆三が書いたノンフィクション小説の映画化で、連続殺人犯の役を緒形拳が薄汚く演じている。
ここでの彼の怖さは、子供を叱り付けるだけでは済まない規模である。子供から見ても近寄るのも憚られる異常の大人である。
根拠の無い暴力性は、この映画を見た当時中学生(88年91年)だった僕には衝撃的だった。

榎津巌(緒形拳)が、千枚通しで男を滅多刺しにするシーンの不気味さが脳裏に焼きついて離れない。
大抵の映画にあるような、アクションシーンとしての暴力場面ではなく、いかに生々しく殺人が行われたかを白けた視点で描いてある。
まだ動いている相手を袋詰めにし、何度も千枚通しを振り下ろす。
殺害した後、おもむろに立小便をして、その尿でもって返り血を浴びた手を洗うという暴挙すら平気でやってのける。
こんなにあっけらかんとし、且つ恐ろしい殺人シーンを僕はかつて見たことがなかった。

そもそも、この映画のことは母親から教わった。
母親の記憶は曖昧であったが、とにかく三國連太郎が気持ち悪かったとのことで、以来三國が嫌いになってしまったというのだ。
そんなに気持ちの悪い三國連太郎を見逃す手はないと思いビデオをレンタルした経緯がある。
親が子に最も見せたくない映画の一つとして挙げられてしかるべき、残虐と不条理とエロスを完備したこの映画を、母親のケアレスミスから掘り当てることができた。
僕は監督今村昌平に拍手を送り、緒形拳に釘付けになり、三國連太郎の凄みに唸った。

詐欺と殺人と女に明け暮れる緒形、息子への憤りを爆発させつつも嫁との怪しげな関係が垣間見える父親役の三國、ギトギトのドラマを暗黒の演出で描き切った今村。
三人の男達の三つ巴の大人世界は、子供を寄せ付けない迫力があった。
子供は明日の昼休みにサッカーをやることでも楽しみにして早寝しなくてはならない。
しかし、間違って目撃してしまった僕は、大人の苦味を知った心地になり大層うれしかったのだ。
良くも悪くも子供は大人に憧れるのだろう。

この映画に登場するのは、規格外の大人達である。
まさかこういった人物を大人としてわざわざあがめる必要はないと思うが、桁外れの人物を演じる者は、得てして常識に常識を積み重ねた真っ当な大人である場合が多い。
実際の緒形拳が紳士であったろうことは想像に難くない。だからこそ、あれを演じることができたのだと思う。
現代における慢性的な大人の不足は、裏を返せば映画で過剰な大人を演じる者が減ったということでもあると言えるのではないだろうか。
大人がどんちゃんと本気で過剰に騒がなければ、真に面白いものなんてできないと思う。
映画以外のところでも、大人の不在が引き起こす社会の退屈はあると思う。
ここへ来ての緒形拳の死去は重大事であり、つくづく惜しまれて仕方がない。

「現代社会は!」などと大きなことを言わなくとも、まず自分自身が立派な大人に成りきれていないことを反省しなくっちゃいけない。
ましてや清原ほどに野球がうまいわけでもないのだから、子供ぶっていても仕方ない。
09年の目標は「大人になるよう努める」、これしかないと思うのでした。

2009年01月

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