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1970年代 アーカイブ

2007年06月22日

「アルカトラズからの脱出」 ~冷徹の美学~
ドン・シーゲル監督

アルカトラズからの脱出」(1979

監督: ドン・シーゲル
製作: ドン・シーゲル
製作総指揮: ロバート・デイリー
原作: J・キャンベル・ブルース
脚本: リチャード・タッグル
撮影: ブルース・サーティース
音楽: ジェリー・フィールディング
 
出演:
クリント・イーストウッド
パトリック・マクグーハン
ロバーツ・ブロッサム
ジャック・チボー
フレッド・ウォード
ポール・ベンジャミン
ラリー・ハンキン
ブルース・M・フィッシャー
フランク・ロンジオ
ダニー・グローヴァー


【おはなし】

クリント・イーストウッド演じる囚人が、アルカトラズ刑務所から脱獄する。
実話をもとに作られた映画。

【コメントー冷徹の美学ー】

あいつがいるだけで映画になる。
たまにそういう俳優がいる。
俳優の力が映画を霞ませてしまう現象。
映画に奴が出演しているのか、奴がいるから映画になってるのか判然としない。
日本人なら例えば高倉健勝新太郎
そしてアメリカ人からはクリント・イーストウッドをその筆頭に挙げたい。

イーストウッドが主演すると、駄作でも佳作にまで昇格する。そんな気がする。
どんなにつまらない台詞も、一応の価値を獲得する。そんな気がする。
気がするだけなのが申し訳ないが、実際そんな気がするのだから仕方ない。
彼の存在そのものが映画感を帯びている。その説得力たるや半端ではない。

「アルカトラズからの脱出」は、そんなイーストウッドが主演でありながら、尚且つ映画としても優れた作品である。イーストウッドと映画が拮抗する幸せな作品。
ドン・シーゲルは「ダーティハリー71年)」の監督でもあり、イーストウッドを大スターにした張本人である。

日曜洋画劇場のおしまいには、今後放映予定の作品ラインナップが紹介された。
「アルカトラズからの脱出」は80年代、日曜洋画劇場の常連だった。
この脱獄映画が大好きで、予告を見るだけでワクワクした。
再来週はアルカトラズだ!と小学生の僕(82年88年)は小踊りした。アルカトラズという語感からして堪らなかった。

孤島に建設されたアルカトラズ刑務所には重犯罪者が収監される。
絶対に脱獄不可能な鉄壁の護りは、もはや一個の砦と化している。
万にひとつ、建物から抜け出たとて、外は荒れ狂う大海である。どだい逃げ切れるはずはない。
そこへ放り込まれた一人の男、イーストウッドはIQ200の知能犯。

何の説明も不要だ。
イーストウッドは脱獄を試みるのだ。
食事のスプーンを牢屋に持ち帰り壁をカリリとやれば、ほんの少しだけ粉となって削れる。
看守のいない隙をついて、毎日地道に繰り返す。
溜った壁の粉は、休憩時間に庭を散歩しながらズボンの裾からこっそり捨て散らす。
ゆっくりと、しかし着実に脱獄への道を切り開く。その過程を逐一丁寧に見せて行く。
僕はイーストウッドの一挙手一投足に目を凝らす。

お葬式コントは、笑ってはいけないシチュエーションが返って笑いを誘うという原理だが、脱獄映画もまた、バレてはいけない設定が常に緊張を維持させて飽きさせない。
幾度も危うい場面が訪れるが、そこはイーストウッド、千両役者の機転で切り抜ける。

僕はイーストウッドの表情が好きだ。
常時眉間にシワを寄せている。
相手が誰であろうと、そのままギリリと睨みつける。
人と話すときも、飯を食うときも、穴を掘るときも、まるで呼吸が変わらない。
表情が無いと言って支障ないかと思う。
そしてこの無表情こそが彼の最大の魅力だと推測する。

イーストウッドにとっての演技とは、そこに存在することだと思う。
「居る」ことに集中している。
身振りや表情を作って、殊更に感情を強調するような演技は、イーストウッドの前では小手先の作為でしかない。
動かざること山のごとし。
無表情のまま、奥歯をくいしばるように台詞を絞り出せば、それだけで彼の憤怒が伝わってくる。

ハリウッドにおいて、今なお孤高の存在感で輝き続けていられるのは、キャリアの中からあみ出した無表情の美学を貫いているからではないだろうか。

イーストウッドはついに、脱獄を決行する。
それまでに仲間となった囚人たちと協力し、危機一髪の逃亡劇。
どうやら海へ繰り出したらしいが、果たして彼が生き伸びているのか、それはこの映画を見た者にも分からない。

小学生の僕はご満悦である。
見る度にハラハラし、ラストで万感の思いに達する。
ひたすらに格好いい。

この映画のおかげで、脱獄に憧れを抱いた。
脱獄するためにはまず、刑務所に入らなければならない。
そのために犯罪を犯すのもやぶさかでないさ!

だが、日本の刑務所を「塀の中の懲りない面々87年)」という映画で見て、どうも様子が違うぞと、ここにはどう考えてもイーストウッドはいないぞと、脱獄する夢は諦めることにした。


2007年07月22日

「スティング」~自分で自分は騙せない~
ジョージ・ロイ・ヒル監督

スティング」(1973年

監督: ジョージ・ロイ・ヒル
製作: トニー・ビル/マイケル・S・フィリップス/リチャード・D・ザナック/ジュリア・フィリップス
脚本: デヴィッド・S・ウォード
撮影: ロバート・サーティース
特殊効果: アルバート・ホイットロック
音楽: マーヴィン・ハムリッシュ

出演:
ロバート・レッドフォード / ジョニー・フッカー
ポール・ニューマン / ヘンリー・ゴンドルフ
ロバート・ショウ / ドイル・ロネガン
チャールズ・ダーニング / スナイダー刑事
アイリーン・ブレナン
レイ・ウォルストン
サリー・カークランド
チャールズ・ディアコップ
ダナ・エルカー
ディミトラ・アーリス
ロバート・アール・ジョーンズ
エイヴォン・ロング


【おはなし】

1930年代のアメリカ、シカゴのお話。
詐欺師がマフィアの首領をだまそうとする。


【コメントー自分で自分は騙せないー】

小学生の頃、運動が得意な男子はよくモテた。
足が速く、球技にセンスを発揮し、美しく泳ぐ彼は、格好いい。
モテる彼は、なぜか勉強もトップクラスだった。

中学高校ともなれば、運動が苦手な連中は勉学に勤しんだ。
身体も大きくなり、彼らは運動面においてもそこそこの表現ができるようになった。
運動と、勉強を見事両立してみせる彼は、よくモテた。
また、顔立ちが整った彼も色気を発揮し、女子の注目を集めた。

一貫して僕は、運動も勉強も苦手だった。
もとより美貌も持ち合わせてはいない。
そうなると残るは「おもしろい奴」のセクションしかない。
ところが、おもしろい奴に立候補する連中のなんと多いことか。
何も取り柄のない有象無象にとって、最後の砦というわけだ。
またそこに集まる者に限ってつまらなかったりする。
勉学班の奴の方が余っぽどおもしろい。

進退窮まった僕は、腕組みして考えた。
格好いい男には、なろうと思ってなれるもんじゃあない。
いや、仮に努力が結実したとして、それでも最初からモテる男には到底敵わないのが世の常。
ああ、非情。
しかし、それでも無駄なあがきをしてしまったのが現実で、人前でコントを披露したり、顔から火が出そうなことばかりが思い返される。

馬鹿みたく自意識過剰だった思春期に、僕が幾ばくかでも分をわきまえることができたのは、ポール・ニューマンのおかげだったかもしれない。
本物の格好良さに、心底憧れた。
特に「スティング」のポール・ニューマンは格別だった。
この映画が作られた瞬間、彼は世界一格好良かったのではなかったろうか。

映画序盤、若き詐欺師フッカー(ロバート・レッドフォード)が、雷名轟く詐欺師ゴンドルフ(ポール・ニューマン)を訪ねる場面。
殺された仲間の無念を晴らすため、ゴンドルフの力を借りにやって来たのだ。
ところが、最初の印象は最悪だった。
彼は二日酔いのヘベレケ。ヨレヨレのグデグデで、まるで名うての詐欺師には見えない。
人まちがいかと思うほどである。
半信半疑のままロバート・レッドフォードはこれまでの経緯を話し協力を要請する。
ニューヨークの大親分ロネガンが敵だと聞き、ポール・ニューマンは仕事を引き受ける。

さて、改めて登場したポール・ニューマン。
詐欺師ゴンドルフに着替えた彼の見違えるような格好良さ。
30年代の衣装がまた似合う。
スーツの着こなし、帽子を被る角度、姿勢から歩き方から、何もかもが完璧。
二人の大仕事が開始される。

この映画は70年代に撮られたものだが、物語の設定のみならず、映画のテイストも「古き良きアメリカ」を彷彿とさせる。
かつて映画は鮮やかだった。
70年代、古きギャング映画の面白さは、まだ人々の記憶にあったのだと思う。
心から楽しめる痛快な娯楽ギャング映画を、誠心誠意作りあげる。
そんな意気込みに満ちた、気持ちの良い傑作である。
溢れる娯楽の香りは、音楽の効用でもあるのだろう。
ここで鼻歌をお聞かせできないのが残念だが、有名なテーマ曲、その名も「エンターテイナー」は誰しも一度は耳にしたことがあるはず。
軽妙な旋律は、聞くだけで笑顔になってしまう。

二人の詐欺師の「だまし」手口は大胆且つ巧妙で、こちらはハラハラさせられっぱなし。
イカサマががっちり映画に仕組まれ、種明かしのときの快感といったらない。
そもそも映画の観客は、騙されるために映画館へ足を運びに行くようなもので、うまく騙してくれよとお金を支払っているのである。
その要望に満点のサービスで応えた映画「スティング」。

ストーリーの面白さと並走して、役者たちの魅力は最大限に発揮される。
ポール・ニューマンを兄貴分に、ロバート・レッドフォードが詐欺師の何たるかを学んで行く過程も見所である。
なんと映画的な二人組みだろう。並んでいるだけでダンディの見本市がたつ。
かっこイイ!

自分はカッコイイのだと幾度となく思い込ませようとしたが、どうも騙し切れなかった。
映画を見ればヒーローが出てくる。
ポール・ニューマンが見れるなら、それでもう充分ではないか。
もし中学生の僕(88年90年)がこの映画に出会っていなかったら、今頃は「付けてるだけでモテるブレスレット」なんぞに手を出していたかもしれない。


2007年07月30日

「エイリアン」~平安の今日、エイリアン~
リドリー・スコット監督

エイリアン」(1979年

監督: リドリー・スコット
製作: ゴードン・キャロル/デヴィッド・ガイラー/ウォルター・ヒル
製作総指揮: ロナルド・シャセット
原案: ダン・オバノン/ロナルド・シャセット
脚本: ダン・オバノン
撮影: デレク・ヴァンリント
特殊効果: カルロ・ランバルディ
編集: テリー・ローリングス/ピーター・ウェザリー
音楽: ジェリー・ゴールドスミス

出演:
シガーニー・ウィーヴァー / リプリー
トム・スケリット / ダラス船長
ジョン・ハート / ケイン
ヤフェット・コットー / パーカー
ハリー・ディーン・スタントン / ブレット
ヴェロニカ・カートライ / ト ランバート
イアン・ホルム / アッシュ
声の出演: ヘレン・ホートン / “マザー”


【おはなし】

宇宙船に侵入してきたエイリアンが、一人また一人と乗務員を襲って行く。


【コメントー平安の今日、エイリアンー】

二年前の衆議院選挙で自民党が圧勝したのは、まだ記憶に新しい。
一転して、この度の参議院選挙では、民主党が大幅に議席を伸ばした。
ありゃまー、と呆れてしまうほどにひっくり返った。
様々な要因がこの結果を招いているのだろうが、果たして有権者にとっての判断の基準というのはどこにあるのだろうか。

政治のことを「まつりごと(政)」と呼ぶのは、言い得て妙である。
お祭りが政治なのかもしれない。
かつて日本では仏閣を建立することで世の人々の不安を取り除こうとした。
また庶民は豊作を祈願し、天変地異を畏怖し、祝祭を行った。
お祈りすることで、気分は随分と変わるはずである。
不安は和らぎ、また明日からも生きて行ける。
大事なのは気分であり、雰囲気である。

国民は、有権者は、日々不安に苛まれている。
なんとなくででも、この現状を打破する雰囲気が欲しい。
ひとつ気の利いた祭り事を頼むぜ、といったところだ。

エイリアン」で、登場人物は一人づつエイリアンの餌食となっていく。
宇宙船内のどこにエイリアンがいるのか、探知機を持ってしても容易に見つけることができない。
動きが俊敏で、また隠れるのがうまい。
自宅に巨大強暴ゴキブリがいるとご想像願いたい。
いるのは分かってるが、姿が見えない。
見つかった瞬間、もう襲われてしまう。
普通のゴキブリでさえ、一旦目にしたら、完全に退治してしまわない限り不安で眠れないものなのに、エイリアンはこちらの生命まで狙ってくるのだ。
こんなに恐ろしいことはない。

乗務員たちは、未知の敵に対してそれぞれの見解を述べ、対立する。
何しろ自分の生命が関わる問題だから、必死である。
この映画の見所の一つは、個々の危機管理能力を観察できるところにある。
命の危険が迫ったとき、どうすれば助かるか。
その決断をするのは大変に難しいことだと思う。
現にこの映画でも、ことごとくが判断を誤り、無残な姿となってしまう。

これが映画で良かった。
先日、僕はお茶の間でこの映画をDVDで久々に見直していた。
もし、この宇宙船の中に自分がいたとして、一体まともな行動ができるだろうか。
この乗務員の中の誰を信用し、その決断に従うだろうか。

逃げている最中、分岐点にさしかかったとする。
艦長が「右だ!」と叫び、リプリーが「左よ!」と僕の腕を引っ張り、アッシュが「そのまま前進だ!」と背中を押す。
ここで僕は、誰かに投票しなくてはならない。
右か、左か、前進か。
安心の雰囲気があるのは艦長かもしれないが、果たしてそれでいいのだろうか。
重要なのは雰囲気や気分ではなく、現前の事象、及び将来的な観測に対し的確な判断があるのかを見極めることだろう。

となると、誰を信用するとかいう次元ではなくなる。
僕の判断で、責任を持って行動しなくてはやってられない。
「後ろだ!」と逆戻りしてみるかもしれない。
エイリアンがどこに出没するかは分らない。
だが、誰かは襲われ、誰かは助かる。
ああ、後ろに振り向いた途端、頭上からエイリアンが飛びついてきたらどうしよう…。

攻防はエイリアンとの間にあるだけではない。
疑心暗鬼に囚われた隊員同士の中でも厳しい闘いが起こる。
どちらも恐ろしい。
リドリー・スコット監督は、濃密な人間同士の駆け引きをこってりと描写している。
単なるSFホラーの味わいだけではない緊張感が映画を盛り上げている。

まだCGの時代に入る前の作品なので、宇宙船やエイリアンの実在感が素晴らしい。
優れたデザインは、美術品とも言えるほどだ。
画面を見るだけでも、得した気分になった。
どちらかと言えばCG肯定派の僕ではあるのだけれど、手作りの美術の迫力を失うことには絶対反対である。
本当にそれがそこにあるのだということを、観る者全てが実感して、ようやく映画世界は成り立つ。

本当にそれがそこにあることを認識するには、作り手だけでなく、観客(多くは有権者)がしっかり想像力を発揮することも不可欠だとも思う。


2009年01月06日

「復讐するは我にあり」~大人絶滅の危機~
今村昌平監督

復讐するは我にあり」(1979年

監督:今村昌平
製作:井上和男
原作:佐木隆三
脚本:馬場当
撮影:姫田真佐久
美術:佐谷晃能
編集:浦岡敬一
音楽:池辺晋一郎

出演:
緒形拳
三國連太郎
ミヤコ蝶々
倍賞美津子
小川真由美
清川虹子
フランキー堺


【あらすじ】
指名手配されている連続殺人犯榎津巌の逃亡生活を追うと同時に、神父である父親との確執がこってりと描かれる。


【コメント-大人絶滅の危機-】

08年桑田真澄に続いて清原和博もプロ野球を引退した。
清原和博の「男の花道」、引退セレモニーをチラッとテレビで見ることができた。
清原ゆかりの人たちが登場し彼の引退を惜しみ、最後、清原本人がファンへの感謝をマイクに向かって演説した。
これほど大々的なプロ野球選手引退セレモニーも珍しい。映像で知る限り長嶋茂雄の引退セレモニー以来の盛況ではなかったろうか。
清原が切々と語る感謝の言葉を聞きながら僕は一つの違和感を感じていた。
長嶋茂雄はもちろんのこと、かつてのこういう立場にあった人達はもっと「大人らしく」挨拶を述べはしなかったろうか。
「番長」というあだ名でマスコミに呼ばれた清原であったが、事実高校生のようにたどたどしい挨拶は、彼の少年性を象徴していた。
清原の人気は、素晴らしい成績もさることながら、この大人らしくないキャラクター、愛嬌にあったのではないかと思う。
ドラフト直後の涙、巨人を倒しての日本一直前の涙、横浜大魔神佐々木の最後の対戦相手としての涙、引退式の涙。
涙に彩られた彼の野球人生に僕はずっと魅せられてきた。
人目を憚らず袖口で涙を拭う野球少年の姿を、彼に見ていた気がする。

清原が大人らしくないことは、特に社会に反することではない。
ある世代を境に「大人」は激減しており、大人でないことは至極当然のことになってしまった。
映画も音楽も小説も、おそらく企業も政界も、どの業界、どの分野でも、大人であることの方が不自然だとする風潮があるような気がしてならない。
あまりにも多くの子供を抱えた世界で、大人の存在は貴重価値を増している。そんな中・・・。

緒形拳が亡くなった。

緒形拳は紛れもない大人だった。
僕のイメージする大人とは、厳しい人である。例えば子供を叱りつける人である。
子供にとって大人は脅威であり、つまり怖い存在なのだと思う。
また、エロさも重要な大人らしさだと思う。
大人の黒光りした色気に、子供は縮み上がるのである。

映画「復讐するは我にあり」の緒形拳は、怖い大人であり、尚且つエロい大人である。
日本を震撼させた実際の事件を元に作家佐木隆三が書いたノンフィクション小説の映画化で、連続殺人犯の役を緒形拳が薄汚く演じている。
ここでの彼の怖さは、子供を叱り付けるだけでは済まない規模である。子供から見ても近寄るのも憚られる異常の大人である。
根拠の無い暴力性は、この映画を見た当時中学生(88年91年)だった僕には衝撃的だった。

榎津巌(緒形拳)が、千枚通しで男を滅多刺しにするシーンの不気味さが脳裏に焼きついて離れない。
大抵の映画にあるような、アクションシーンとしての暴力場面ではなく、いかに生々しく殺人が行われたかを白けた視点で描いてある。
まだ動いている相手を袋詰めにし、何度も千枚通しを振り下ろす。
殺害した後、おもむろに立小便をして、その尿でもって返り血を浴びた手を洗うという暴挙すら平気でやってのける。
こんなにあっけらかんとし、且つ恐ろしい殺人シーンを僕はかつて見たことがなかった。

そもそも、この映画のことは母親から教わった。
母親の記憶は曖昧であったが、とにかく三國連太郎が気持ち悪かったとのことで、以来三國が嫌いになってしまったというのだ。
そんなに気持ちの悪い三國連太郎を見逃す手はないと思いビデオをレンタルした経緯がある。
親が子に最も見せたくない映画の一つとして挙げられてしかるべき、残虐と不条理とエロスを完備したこの映画を、母親のケアレスミスから掘り当てることができた。
僕は監督今村昌平に拍手を送り、緒形拳に釘付けになり、三國連太郎の凄みに唸った。

詐欺と殺人と女に明け暮れる緒形、息子への憤りを爆発させつつも嫁との怪しげな関係が垣間見える父親役の三國、ギトギトのドラマを暗黒の演出で描き切った今村。
三人の男達の三つ巴の大人世界は、子供を寄せ付けない迫力があった。
子供は明日の昼休みにサッカーをやることでも楽しみにして早寝しなくてはならない。
しかし、間違って目撃してしまった僕は、大人の苦味を知った心地になり大層うれしかったのだ。
良くも悪くも子供は大人に憧れるのだろう。

この映画に登場するのは、規格外の大人達である。
まさかこういった人物を大人としてわざわざあがめる必要はないと思うが、桁外れの人物を演じる者は、得てして常識に常識を積み重ねた真っ当な大人である場合が多い。
実際の緒形拳が紳士であったろうことは想像に難くない。だからこそ、あれを演じることができたのだと思う。
現代における慢性的な大人の不足は、裏を返せば映画で過剰な大人を演じる者が減ったということでもあると言えるのではないだろうか。
大人がどんちゃんと本気で過剰に騒がなければ、真に面白いものなんてできないと思う。
映画以外のところでも、大人の不在が引き起こす社会の退屈はあると思う。
ここへ来ての緒形拳の死去は重大事であり、つくづく惜しまれて仕方がない。

「現代社会は!」などと大きなことを言わなくとも、まず自分自身が立派な大人に成りきれていないことを反省しなくっちゃいけない。
ましてや清原ほどに野球がうまいわけでもないのだから、子供ぶっていても仕方ない。
09年の目標は「大人になるよう努める」、これしかないと思うのでした。

1970年代

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