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2000年代 アーカイブ

2007年06月25日

「UNloved」 ~女性からの贈りもの~ 
万田邦敏監督

UNloved」(2002

監督: 万田邦敏
プロデューサー: 仙頭武則
脚本: 万田珠実/万田邦敏
撮影: 芦澤明子
美術: 郡司英雄
編集: 掛須秀一
音楽: 川井憲次
音響効果: 今野康之
照明: 金沢正夫
整音: 松本能紀
装飾: 龍田哲児
録音: 細井正次
助監督: 西村和明
 
出演:
森口瑤子 / 影山光子
仲村トオル / 勝野英治
松岡俊介 / 下川弘
諏訪太朗 / レストランのオーナー
三條美紀 / 安西


【おはなし】

一人の女性と二人の男性による三角関係。

【コメントー女性からの贈りものー】

友人に誘われなければ見損ねていた。
そもそも、この映画が上映中であることすら知らなかった。
02年の春。
渋谷の映画館ユーロスペースで僕は思いがけない映画体験をする。

「UNloved」?
監督、万田邦敏
僕に予備知識がないのも仕方なかった。
この映画は万田監督の長編デビュー作だったのだ。
共同脚本は、監督の奥さん。これは重要な点。

90年代の半ばあたりから、日本映画に登場する女性はフワフワすることが多くなった。
言語は要領を得ず、口調は舌足らず。
首を傾げたような佇まいで、甚だしいケースでは白のワンピースといういでたちをしている。
映画だけでなく、あらゆるマスメディア、無論街中にも、この手合いの地に足のつかない女性たちは繁茂した。
彼女たちのフワフワ不可思議の人物像は本性から来ているものではない、ように僕には感じられる。
あくまで白痴的素振りをしているに過ぎない、のではないかと思うのだがどうだろう。

何故こんな事態に陥ったのかと考えてみると、その主因は男性中心社会にあるように思えてならない。
社会を牛耳る男性の中へ女性が食い込むには、ノータリンの振りで近付いて、先天的ノータリンである男性に「ういやつ!」と言わせる処世術が最も順当な手段なのかもしれない。
現に、男性の多い映画界において、彼らの好む女性像がフワフワパーであることが多く、必然として女性はそれを演じることになったのだろう。

しかし女性の中には、男性が好むからといって、そういう振る舞いをできない人達がいる。
やりたくてもできない人と、鼻っからやりたくもない人とがいる。

「UNloved」の主人公光子は、男性が決め込む枠の中へ入ることを、徹底して拒絶する女性である。
六畳間に一人暮らしする三十歳過ぎの光子は、役所勤めをしている。
上司に呼ばれ、資格を取ったらどうだと勧められるが、断る。
今のままで十分だと光子は言う。

「いえ、そういうことじゃなくて」
光子は度々この台詞を口にする。
周囲の男性は光子をシンプルな女性像におさめようとするが、彼女は自分のペースで生きることを断じて曲げない。
そんな時、男性は一様に「無理するなよ」と光子に言う。光子のそんな態度がとても信じられないのだ。
それに対し、
「いや。そういうことじゃなくて」
と、彼女は淡々と的確に否定するのだ。

内心僕は手をたたいて喜んだ。
映画でまともな女性が、やっと出てきたと思った。
光子が男性たちを一蹴する様は痛快ですらあった。

光子(森口瑤子)はお金持ちの実業家(仲村トオル)からの猛烈なアピールを受けるが、音楽をやっているフリーターの男(松岡俊介)の方に惹かれてしまう。
仲村トオルは納得がいかない。そして松岡俊介は、なぜ自分なのか理解に苦しむ。
三角関係の攻防を、鋭利な角度で突き刺すような台詞の連続で描写する。

特筆すべきは、万田監督の演出。
ほとんど棒読みに近いセリフ回しが、返って言葉の意義を深くさせる。
人物が向き合い、背中合わせになり、微妙な心理の陰影が浮かび上がる。
そして印象的な「手」のクローズアップが効果的に挿入される。
「手」とは人そのもので、人生そのものである。ように感じる。
緊張感の高いシーンが続き、ホラー映画かと見紛うほど。

映画の後半は、いよいよ激しい会話劇へ突入する。
当初、光子にエールを送っていた僕も、もはや彼女の暴走を止められないところまで来てしまった。
そんなにまでドグマを守るとなると、なかなか人には愛されない。
タイトルのUNlovedとは、アンラブド。「愛されざる者」の意。
僕は、登場人物の過剰さに感心しきりだった。
改善の余地が見えない渦に三人は飲み込まれ、あがく。
もはや滑稽にすら見える。

旦那さんや彼氏のいる方は、是非ご一緒にこの映画を観賞されることをお勧めする。
彼らがどういう反応を示すのか、見ものである。
今まで築いてきた女性への偶像が、音をたてて崩れるとき、男性はどんな顔をするだろうか。
そこそこの理解を持っているつもりだった僕も、映画が終わる頃には顔がひんまがってしまった。

※残念なことに、この映画はDVD化されていません。お近くのビデオ屋さんに、あるといいのですが・・・。


2007年06月29日

「大日本人」 ~隙間にいるヒーロー~ 
松本人志監督

大日本人」(2007

監督: 松本人志
プロデューサー: 岡本昭彦
製作代表: 吉野伊佐男/大崎洋
製作総指揮: 白岩久弥
アソシエイトプロデューサー: 長澤佳也
企画: 松本人志
脚本: 松本人志/高須光聖
撮影: 山本英夫
美術: 林田裕至/愛甲悦子
デザイン: 天明屋尚 (大日本人刺青デザイン)
編集: 上野聡一
音楽: テイ・トウワ/川井憲次 (スーパージャスティス音楽)
vfx監督: 瀬下寛之
音響効果: 柴崎憲治
企画協力: 高須光聖/長谷川朝二/倉本美津留
照明: 小野晃
装飾: 茂木豊
造型デザイン: 百武朋
録音: 白取貢
助監督: 谷口正行

出演:
松本人志
竹内力
UA
神木隆之介
海原はるか
板尾創路
街田しおん


【おはなし】
廃れつつある日本の伝統を背負った大佐藤という男が、とあるドキュメンタリー番組で密着取材を受けている

【コメントー隙間にいるヒーローー】

90年代に青春期を過ごした僕にとって、ダウンタウンという芸人は重要である。
ダウンタウンや吉田戦車が、中高生の僕たちの先頭に立ち「面白い」はこっちだ!と引っ張っていた。

およそ十年をかけて、何をおもしろがるかという基準値をダウンタウンは示し、僕はそれを享受した。
そのことが果たして洗脳なのか意識改革なのか、いずれにしても、僕は率直に彼らの為すことを面白いと思った。

一方で、僕は映画を見ていた。
映画は文化的教育的な側面を持つという風潮があり、ダウンタウンの番組に眉をひそめる親たちも、映画を見ることには反対しなかった。

だが僕にとって、両者に差異はほとんど感じられなかった。
どちらも刺激的で、絶えず「もっと見たい」と欲していた。
ダウンタウンが下らないとも思わなかったし、映画が崇高だとも思わなかった。
その感覚は未だに僕の根っこにある。

「大日本人」は、スクリーンでコントをやるという、野心に満ちた快作であった。

コントと映画の境が一体どこにあるのかは、両方を好物とする僕にとって積年の疑問であった。
その回答の一つを松本人志は示すことに成功した。
この映画は、コント側からその境界線に近付こうとした初めての作品だったと思う。

大佐藤は、仮面ライダーウルトラマンと同種のヒーローである。
敵と闘っているときはともかく、普段彼らヒーローは何をして過ごしているのだろうか。
もしかしたら、街を歩いているかもしれないし、買い物をし、トイレに入るかもしれない。
この映画は、そういった「隙間」の時間帯にスポットを当てている。

僕はこの視点がたまらなく好きだ。
ドラマティックという言葉があるように、多くの映画では出来事が中心に描かれる。
重大な事件があって、取り巻く人々の葛藤が物語を進めていく。
しかし考えてみれば、重大な事件があった後、なお人生は続くのである。
次の重大事が来るまでの間、毎日、寝て食べて働いて、笑って怒って、泣くのだと思う。
むしろ隙間にこそ、人を人たらしめるものがあるのではないだろうか。
隙間にこそドラマが存在するのではないか。
僕はこの映画でヒーローの日常を目撃し、笑った。

映画を見ながら、僕はふと小学校三年(84年)の頃の出来事を思い出した。
学校が終われば走って帰宅し、ランドセルを玄関から放り投げ、そのまま遊びに出掛ける。
そんな日々を送っていたある日。
いつものように友人宅へ向かっていると、前方にハゲ頭の背の低い初老の男性が立ちはだかった。
友人宅へは、この細い抜け道を行くと近い。人もあまり通らない。
そのじいさんの視線を感じつつ、横を通り抜けようとした。
と、突然、彼は僕の右腕をつかみグイグイと引っ張りだした。
僕は声も出ず、引っ張られないように足を踏ん張った。
じじいはにやりと笑うと、手を放し
「おじさんは、スーパーマンなんだ」
と自分を指差した。
「ははは」
と僕はひきつった笑いを返し、走って友人宅へ逃げた。

当時の僕には彼がスーパーマンだとはとても思えなかった。
いや、実際違うだろう。
おかしなじいさんである以上の何者でもない。
だが今は、スーパーマンであってもいいじゃないかと思っている。
彼がそう言うのだから、きっとある部分ではスーパーマンなのだろう。
スーパーマンの日常を、僕はまったく知らないのだから。

大佐藤の日常が、日常であればあるほど、哀れなおかしみが増す。
世間に疎まれ、マスメディアに翻弄され、敵と闘う。
小学生の僕は、あの大佐藤とすれ違っても、まるで気付かなかったろう。

スクリーンでコントを仕掛ける工夫は随所に見られた。
スクリーンで見るべき作品であることは疑いようがない。
だが、これを「映画」と誰もが呼ぶようになるには、きっとまた十年の月日が必要だろう。
と思う。


2007年07月02日

「ヤンヤン 夏の想い出」 ~世界映画の良識~
エドワード・ヤン監督

ヤンヤン 夏の想い出」(2000

監督: エドワード・ヤン
製作: 河井真也
脚本: エドワード・ヤン

出演:
ジョナサン・チャン
ケリー・リー
イッセー尾形
ウー・ニエンジェン
エイレン・チン


[はじめに…]
今朝は小雨が降っていて、いつもより静かな目覚めを迎えました。
眠っている間に友人から携帯電話にメールが届いており、枕元で開封してみました。
「エドワード・ヤンが死にました」という一文が目に入ってきました。
07年6月29日、59歳の若さで癌のため亡くなられたそうです。
心よりご冥福をお祈りします。


【おはなし】

タイトルから連想するような、少年ヤンヤンがおじいちゃんちで過ごした夏休みの思い出、といった内容ではありません。
ヤンヤンを含む一家のそれぞれの出来事が描かれます。

【コメントー世界映画の良識ー】

公開の翌年、01年にレンタルビデオで鑑賞した。
その頃僕は悶々としていた。
大学を中退して以来、アルバイトを転々とし、さて自分はどこに向かおうとしているのか、さっぱり分からず、苛立っていた。

そんな時にこの作品にめぐり逢った。
あの時、この映画を観れて良かったと、心から思っている。

ヤンヤンの叔父の結婚式から、この映画は始まる。
叔父の元恋人が現れ、華やかな結婚式の場は一瞬にして修羅場と化す。
さらに、同じ日。
ヤンヤンの祖母が倒れて意識不明となってしまう。

導入から穏やかならぬ事態が連発するが、映画はちっともバタバタしていない。
落ち着いたタッチは、その様子を黙って見守るようにと僕に語っているようだった。

ヤンヤンの父親は、納得していなかった。
会社の方針はどうも利己的に過ぎる。
もっと先を見据えて、人としてあるべき態度で経営を行うべきだ。
日本から来たゲームプログラマー大田(イッセー尾形)と静かで熱い意気投合を果たす。
そんな折、学生時代の恋人と偶然に再会する。
あの時彼は、彼女から逃げることで関係を自然消滅させていたのだった。
その落としまえを、今になってとらなければならないのだろうか。
だが、甘い記憶とともに、もう一度会う約束をしてしまう。

ヤンヤンの母親は、涙が止まらなかった。
幸福なはずの家庭と、充実しているはずの仕事を、いつしか負担に感じていたのだろうか。
ナーバスになり感情を抑えることができなくなっていた。
友人の勧めで新興宗教に助けを求めた。藁にもすがる思いだった。
そんな妻を、夫は咎めようとはしなかった。
全てを受け入れようとした。
だがもしかすると、彼女にかけるべき言葉が何も見つからないでいるだけなのかもしれなかった。

ヤンヤンの姉は、嫉妬していた。
気になる彼は友人の恋人だった。
想いを伝えるなどということは考えにも及ばなかった。
二人が睦まじく歩いているのを遠くから眺めるばかりだった。
ところがある日、唐突に彼が告白をしてきた。
あの子とは別れたと言う。
うれしさと驚きと後ろめたさとで、動揺した。
でも、お互いに好き同士ならば、一体なんの問題があろうか。
まさかこの後、恐ろしい犯罪が起こるとも知らずに、彼女は彼とお付き合いをしたいと思った。

ヤンヤンの祖母は、意識不明のままだった。
自宅のベッドで横になったまま彼女は動かなかった。
母親の発案で家族は毎晩、ベッドの脇でお婆ちゃんに語りかけた。
もしかしたら意識の奥に届くかもしれない。
一人一人、日替わりで話しかけた。
いつしかそれは、彼らにとっての懺悔の部屋となっていった。

そんな中、ヤンヤンは奔放に日々を過ごしていた。
学校でイタズラをやらかし、先生に怒られた。
可愛いあの子にちょっかいを出してみた。
お父さんにもらったカメラで、人の後姿ばかりを撮ってみた。
「だって、背中は自分で見えないでしょ?」と飄々としたものだ。
ある嵐の日、ヤンヤンはプールサイドにいた。
あの子は泳ぎが得意だ。
僕はカナヅチなんかじゃない。
男の子の意地が、彼をプールの中へと飛び込ませた。

登場人物の抱えるそれぞれの葛藤が、こうも身近に迫ってくる映画も少ない。
僕は、この映画を思い出すだけでボワーッと胸の奥が熱くなるのを感じる。
どのエピソードもドスンと響いてくる。

修正の難しくなった個々の問題がいよいよひずみを帯びてきて、言い知れぬ緊張感で映画が染まる。
物事は簡単に進んでくれない。
皆もがいていて、みっともないエゴを出しては反省する。
悲しき人間の営みを、エドワード・ヤンは肯定の眼差しで描写する。
決して見捨てない。懐の深さがある。
切ないドラマの展開、奇跡のクライマックスを経て、ヤンヤンが作文を読み上げるラストシーンに、僕は落涙を禁じえなかった。

何故映画を撮るのか、と質問されたエドワード・ヤンは「多くを語らなくて済むから」と答えた。
説明を省き、状況を観察するかのごとくシーンを捉える。
一歩引いた視点は、冷静で優しい。

この映画の、イッセー尾形扮する日本人プログラマーとヤンヤンの父親との交流は、きっと誰もが羨ましくなる仲である。
イッセーが飛び入りでピアノを弾くのを、バーのカウンターで眺めるヤンヤンの父。
伊豆のホテルのロビー、また居酒屋で会う二人の光景は、既に仕事の関係を超えた信頼し合う大人の同志の姿に見える。
インタビューで監督は二人の関係を「ソウルメイト」と呼んでいた。
ソウウルメイトかあ…。

映画を観終わったとき、僕はままならぬ自分の現状を誰かのせいにしていたのではないかと、思いあたった。
大したことはできずとも、少なくとも友人は大事にしようと思った。

[おわりに…]
このブログを書き始めてまだそれほど日は経っていません。
「ヤンヤン 夏の想い出」は、ずっと先にとっておこうと思っていました。
今より文章がうまく書けるようになってから、それから力を込めて書こうと。
これほどの傑作を扱うには、失礼のないように気をつけたかったのです。
一人でも多くの人に、この作品を紹介したい。
実際、僕のような者にそんな力はないのですが、この場で紹介する限りは、自分なりに最善を尽くしたいと考えていたのです。
エドワード・ヤンという監督が亡くなったことは、僕にとって大きな損失でした。
きっと世界にとっても多大な損失であったと、信じて疑いません。


2007年07月15日

「シカゴ」 ~二つの腹話術~      
ロブ・マーシャル監督

シカゴ」(2002年

監督: ロブ・マーシャル
製作: マーティ・リチャーズ
共同製作: ドン・カーモディ
製作総指揮: ニール・メロン/クレイグ・ゼイダン/ジェニファー・バーマン/サム・クロザーズ/メリル・ポスター/ボブ・ワインスタイン/ハーヴェイ・ワインスタイン
共同製作総指揮: ジュリー・ゴールドスタイン
原作: ボブ・フォッシーミュージカル『シカゴ』)/フレッド・エッブ (ミュージカル『シカゴ』)
原作戯曲: モーリン・ダラス・ワトキンス
脚本: ビル・コンドン
撮影: ディオン・ビーブ
美術: ジョン・マイヤー
衣装: コリーン・アトウッド
編集: マーティン・ウォルシュ
音楽: ジョン・カンダー (ミュージカル『シカゴ』)/ダニー・エルフマン

出演:
レニー・ゼルウィガー / ロキシー・ハート
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ / ヴェルマ・ケリー
リチャード・ギア / ビリー・フリン
クイーン・ラティファ / ママ・モートン
ジョン・C・ライリー / エイモス・ハート
テイ・ディグス / バンドリーダー
ルーシー・リュー / キティー
クリスティーン・バランスキー / メアリー・サンシャイン
コルム・フィオール / マーティン・ハリソン
ドミニク・ウェスト / フレッド・ケイスリー


【おはなし】

血だらけの手を洗うヴェルマ!真っ赤に染まる洗面台!
あとは、歌と踊りを楽しみましょう。


【コメントー二つの腹話術ー】

03年、僕は演劇の公演を控え戦々恐々としていた。
学生時代(95年97年)以来、久々のお芝居参加だった。
劇団というほどのものではない。
数人が集まってほとんど成り行きで立ち上げたのだが、二度公演を打っただけでその後自然消滅してしまった。

僕たちは公演ができるかどうかの瀬戸際に立たされていた。
台本は難航を極め、稽古はまるで進行せず、事態は日を追うごとに悪化していった。
自分たちの不甲斐なさに呆れ、またやり場のない怒りに苦悶した。
今思えば、誰も期待などしていないお芝居に、何故あんなにも苦痛を持ち込まなければならなかったのか理解に苦しむ。
本番まで二週間を切った段階で我々は腹をくくった。
とにかく時間を埋めろ。
短編のお芝居を三つ。その幕間に映像作品を二つ。
なんとか捻り出せ!
オムニバス形式という有難い呼び名がある。短いものならボロが出なくて済む。
本当を言うと短くてもボロは出るものなんだが。

四つはなんとかなったのだが、最後の一つがどうしても完成しない。
公演日まであと五日というとき、腹話術の短編芝居がようやく生まれた。

ミュージカル映画「シカゴ」は、楽しい作品だった。
公開後DVDで鑑賞したが、スクリーンで見なかったことを後悔した。

ミュージカル専門ではない俳優がミュージカル映画に出演することは多々あるが、これはおそらく映画の場合編集段階で、ある程度ゴマカシが効くからだろう。
スタントマン同様に、顔を見せなければダンスのプロに演じさせることもできるし、俳優のうまく格好がついた姿だけを抜粋して繋げることもできる。歌は録音したものをいくらでも修正可能だ。
これは映画ミュージカルの利点であり、醍醐味でもあると思う。
ただしフレッド・アステア のような人がいるのならば(※)、僕はそちらを見たいとは思うのだが。

リチャード・ギアは頑張っていた。
もう結構いい歳だ。
抜群にうまく踊れるわけではない俳優は表情が重要になってくる。
雰囲気である。
問題なくやりきったぜ!という顔をしてくれると、それなりに見えたりする。
リチャード・ギアレニー・ゼルウィガーは、そういう点ではしっかりと演じて見せていた。

良かったのはキャサリン・ゼタ=ジョーンズ
迫力のある存在感で、他の二人を完全に食ってしまっていた。
結構やる人なんだなと、この映画で知った。
伊達でマイケル・ダグラスと結婚したわけじゃない。
相当なタマだ。格好いい。

虚構と現実が交錯し、ショーなのか現実なのか判然としない場面が、このミュージカルのおもしろいところで、最終的に犯罪も何もショーにしちまえという発想は好きだ。

そして印象的なのは腹話術の場面。
これのことか。

参加したお芝居は、内容はともかく無事終了した。
終演後、お客さんの一人から指摘された。
「人間腹話術は、シカゴでしょ?」
僕は「シカゴ」を見ていなかったので面食らってしまった。

椅子にかけたリチャード・ギアの膝に乗るレニー・ゼルウィガーは人形のメイク。
二人は腹話術芸の掛け合いをやる。
まったく同じアイデアだ。
しかも、ハリウッド俳優はうまいこと演じる。
実に楽しい場面だ。
我々のやった腹話術芝居のなんと下品だったことだろう。
赤面ものである。

売れない芸人ナカさんとケン坊の下ネタ満載の会話。
客席から温かい失笑をたくさん頂戴した。
その腹話術を演じた友人夫婦は、懲りることなく、その後呼ばれた友達の結婚式の余興でそいつを披露したのだそうだ。
「まあまあウケたよ」とケロッとしている彼らは、まだ「シカゴ」を見ていないかもしれない。

※フレッド・アステアついて「イースター・パレード」の記事で触れています→こちら(07年9月4日の記事です)


2007年07月16日

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」 ~稀代の冷笑家~
ラース・フォン・トリアー監督

ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000年

監督: ラース・フォン・トリアー
製作: ヴィベク・ウィンドレフ
製作総指揮: ペーター・オールベック・イェンセン
脚本: ラース・フォン・トリアー
撮影: ロビー・ミューラー
振付: ヴィンセント・パターソン
音楽: ビョーク

出演:
ビョーク / セルマ
カトリーヌ・ドヌーヴ / キャシー
デヴィッド・モース / ビル
ピーター・ストーメア / ジェフ
ジャン=マルク・バール / ノーマン
ヴラディカ・コスティック / ジーン
カーラ・セイモア / リンダ
ジョエル・グレイ / オールドリッチ
ヴィンセント・パターソン / サミュエル
ジェリコ・イヴァネク / 地方検事
シオバン・ファロン / ブレンダ
ウド・キア ポーコルニー / 医師
ステラン・スカルスガルド / 医師


【おはなし】

ビョーク演じるセルマは、視力を失いかけていた。工場で働き手術費を貯めていたが、隣家の親父に盗まれてしまう。


【コメントー稀代の冷笑家ー】

ミュージカル映画が苦手だという人の多くは、さっきまで普通に喋っていた者が何故急に歌い踊りだすのか理解できないと言う。
そこに違和感を持ち、受け付けないのだと。
僕は、その違和感こそ面白いなと思う。
歌と踊りは最も根源的な芸能で、見るのもやるのもこんなに楽しいものはない。
ただ、自分はうまく踊れも歌えもしないので、専ら鑑賞する側で済ませたい。
歌と踊り、おまけに物語までつけて語ってしまおうというのだから贅沢だ。
ごった煮の楽しさはミュージカルならではである。
生の喜び、ここにあり。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を撮ったラース・フォン・トリアーという監督は、その違和感に目をつけた。
映画はリアルな物体が映るものだから、舞台とは虚構性の点で質が違う。
映画で急に男が歌いだせば、それは彼が現実に歌いだしたことになる。
だから歪んで感じとられるのだろう。
では、それを極端な妄想の形として表現したらどうなるだろう。
唐突に歌い踊るのが一人の女性の妄想の産物だったとしたら。

ミュージカル嫌いをも納得させるこの秀逸なアイデアを持ちながら、トリアー監督はその妄想を強烈な悲劇に着地させた。
セルマは善良な人物だが、数々の失策をやらかす。
社会はセルマに厳しい現実をこれでもかと突きつける。
苦境に追い込まれた彼女にとって心の拠り所は、妄想の中で歌い踊ることだった。

見ていて歯噛みするほどにセルマを取り巻く状況は悪化していく。
少しくらいの好転があってもいいではないかと思うほどに、救いがない。
その現実と相対して、妄想のミュージカルは弾けるような夢世界である。
もう何がなんだか、感情があっちへ行ったりこっちへ来たり、落ち付いて鑑賞できる代物ではない。

徹底した悲劇の積み重ねと人々の悪意でラストシーンまでやってくる。
最後はどん底に突き落とされて、エンドロール。
な、な、なんだこの映画は。
「不愉快」という言葉がぴったり。
こんなものを作る奴の気が知れない。
DVDでの鑑賞だったが、観終わってしばしハラワタが煮えくり返っていた。

ところがその後、この監督の過去の作品を続けてビデオレンタルするうちに、どうやら僕はしてやられたのだということに気が付いた。
トリアー監督は、僕に嫌われることを寧ろ喜んでいたに違いないと悟った。
全ては彼の思惑の中だった。
こんなものミュージカルじゃない!と僕が怒鳴ったところで、彼はニヤリとして「じゃあ、どういったのがミュージカルなんだ?」と答えるだろう。
僕は返答に困る。
悲劇のための悲劇は見苦しいぞ!と言っても、「じゃあ、悲劇ってなんだ?ストーリーってどういうことを指しているんだ?」と答えるだろう。
埒が明かない。
僕が彼を嫌ったとて、彼は嫌われて結構という態度だ。

彼はこれまでの作品で「映画」そのものに、様々な問いかけをしてきた。
僕たちが「普通」に見ている映画に、常に懐疑的であった。
カメラワークも、ストーリーも、彼なりの野心に満ちている。
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、いやらしいまでの悲劇と感動を「ミュージカル」で、敢えて作ったに相違ない。

世に毒舌家というのがいるが、大抵彼らは毒を笑いに昇華している。
誰もが心の中で思っているそのことを、毒舌家はさらりと言ってみせる。
だから、おもしろい。
毒舌家は嫌われ者のようでいて、その実、皆から慕われることが多い。

トリアー監督は違う。
笑いに転化しないように心掛けているようにすら見える。
本当に嫌われ者である。
しかもそれを、うれしそうにしている。
実に厄介な監督である。

セルマの悲劇を目の当たりにし、「こんな負のものを認めては世界が腐る」などと憤慨したものだが、しかしこれほどにちゃんと腹の立つ作品は過去に出会ったことがなかった。
なぜいつまでも自分が立腹しているのか理由が知りたくなった。

僕はこの監督が嫌いだが、悔しいことに新作は多分また見に行ってしまう。


2007年07月23日

「街のあかり」~寒いヘルシンキ、暑い東京~
アキ・カウリスマキ監督

街のあかり」(2007年公開)

監督: アキ・カウリスマキ
製作: アキ・カウリスマキ
脚本: アキ・カウリスマキ
撮影: ティモ・サルミネン
編集: アキ・カウリスマキ
音楽: メルローズ

出演:
ヤンネ・フーティアイネン / コイスティネン
マリア・ヤンヴェンヘルミ / ミルヤ
マリア・ヘイスカネン / アイラ
イルッカ・コイヴラ / リンドストロン
カティ・オウティネン / スーパーのレジ係


【おはなし】

飲み仲間も恋人もいない孤独な警備員の男コイスティネンは、いつの日かきっと事業を立ち上げて周囲の連中を見返してやるつもりでいた。
女に騙されて刑務所暮らしをした後も、その決意は変わらなかった。


【コメントー寒いヘルシンキ、暑い東京ー】

遥か彼方、北欧の国フィンランドのことを、僕はこのアキ・カウリスマキ監督の映画でしか見たことがない。
朴訥な言葉と殺風景な街の様子。
カウリスマキ映画に出てくるフィンランドが果たしてどこまで本当のフィンランドを映しているのかは分からない。
だが、どこの国にも敗残者がいることに間違いはないのだろう。

昨日(07年7月22日)「街のあかり」を渋谷ユーロスペースで鑑賞してきた。
日曜日午前の渋谷。
朝、雨が降ったせいでいつもより人通りが少ない。
気温は上昇しつつあり、蒸し暑さにTシャツはぺったり背中に張り付いていた。
上京して12年も経つのに、いつまでもここは自分にとって場違いな土地のままだ。
渋谷に来ると、いつも厭世的な気分になってしまう。

「街のあかり」の主人公コイスティネンは警備会社に勤めている。
人付き合いが苦手な彼は、職場で仲間に疎まれている。
酒場で女に声をかけてみれば、連れの男に睨まれた。
隅っこに立っているとトイレのドアが開き、壁とドアに挟み込まれてしまった。

うだつの上がらぬ彼に目を付けたのは地元のヤクザ。
警備員と知って、親分は自分の女ミルヤを派遣する。
ミルヤはコイスティネンに接近し、立ちどころに彼の心を掴んでしまう。
目的は宝石店の鍵、暗証番号を聞きだすことだ。
到底美人とは言えない顔立ちだが、一度見たら忘れられない、実に味わい深い顔である。
このあたりの起用がいかにもカウリスマキらしい。
奸婦が必ずしも美女にならない。
人間界の機微をしっかりと捉えている。

コイスティネンには野望があった。
自分で警備会社を設立し成功を収めるつもりなのだ。
港にポツンとプレハブのソーセージ屋が建っている。
彼の計画を聞いてくれるのは、この店の女アイラだけであった。
彼女の優しさにも気付かず、コイスティネンは出会った女の話をしてしまう。

フィンランドヘルシンキを舞台に、寂しい男がみるみる転落していく様が描かれる。
夕景の街並みや、工場が望める港の風景が、しみじみと彼の不幸の伴奏となる。
どれだけ救いのない話をやっても、カウリスマキの映画は喜劇として成立する。
しれっとした演出で、人間のおかしみを表現することに長けた監督である。

やくざの女と知らずに、コイスティネンはミルヤとデートをする。
出かける前の部屋での様子が素敵だ。
皮靴を履いて、スーツのいでたち。
キッチンの引き出しを開けるとシュッと足を乗せて布巾で靴を磨く。
几帳面で誇りの高い男であることが伺える。
チャップリンではないが、孤独で貧しくとも心はピカピカな男なのだ。
また、ミルヤが初めてコイスティネンのおうちにやって来たとき、花瓶に花を活け、ベーグルを焼き、お肉もオーブンに入った状態でもてなす。
肩に手を回すことも拒まれ、彼女は早々に帰宅してしまうのだが。
そういった細やかな描写が、彼に襲いかかる悲劇をより一層切なく、おかしみを持ったものへと昇華させる。

ソーセージ屋のアイラはコイスティネンにとって唯一の救いである。
濡れ衣を着せられた裁判を傍聴し、刑務所暮らしの彼を手紙で励ました。
その想いは、なかなか彼には届かない。
出所した彼が、改めてやくざから暴行を受けたと聞き、彼女は現場に駆け付ける。
もしかしたら希望と呼べるものが二人の間に生まれるかもしれないことを予感させ、映画は幕を下ろす。

喜ばしいことではないのかもしれないが、年を経るごとにカウリスマキの映画が身近になってきた。
主人公は大抵の場合、落伍者である。
そして言い訳をせず、事態を粛々と受け入れる人たちである。
78分のこの映画の中で、コイスティネンが一度だけ笑顔を見せるのだが、それは塀の中で他の囚人たちと談笑している場面だった。
うまく社会を渡って行けなかった連中が笑顔になるのは、監獄の中だけとは皮肉な描写である。

映画館を出ると気温は更に上昇していた。
行き交う人も増え、むせ返るような湿気である。
人混みの坂を下りながら、僕はとても笑顔ではおれなかった。
コイスティネンの小さな正義感が、僕の胸の中にも灯った気がした。

カウリスマキの映画を存分に共感できる者は、多分社会的には黄色信号であったりするのだろう。
でも、人間的には青信号なのではないかと、希望的観測も含め僕は信じてみたい。

※この映画はチャップリンの「街の灯」へのオマージュだとカウリスマキは述べています。
「街の灯」についての記事は→こちら(07年7月8日の記事です)


2007年08月07日

「愛しのローズマリー」~上履きの外見~
ファレリー兄弟監督

愛しのローズマリー」(2001年

監督: ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー
製作: ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー/ブラッドリー・トーマス/チャールズ・B・ウェスラー
脚本: ショーン・モイニハン/ピーター・ファレリー/ボビー・ファレリー
撮影: ラッセル・カーペンター
音楽: アイヴィ

出演:
グウィネス・パルトロウ / ローズマリー
ジャック・ブラック / ハル
ジェイソン・アレクサンダー / マウリシオ
ジョー・ヴィテレッリ / スティーブ・シャナハン
レネ・カービー / ウォルト
スーザン・ウォード ジル
アンソニー・ロビンス / アンソニー・ロビンス(本人)
ブルース・マッギル
ナン・マーティン
ダニエル・グリーン
ブルック・バーンズ


【おはなし】

催眠術をかけられたハル(ジャック・ブラック)は、超肥満体の女性が美女に見えるようになった。
実際は100キロを超すデブのローズマリー(グウィネス・パルトロウ)が、モデルのように美しい女性に見える。
この恋の顛末やいかに。


【コメントー上履きの外見ー】

この映画の監督であるファレリー兄弟は、社会的なタブーを物語に織り交ぜたラブ・コメディを幾本も撮っている。
「愛しのローズマリー」では、人の外見に対する偏見をテーマとして扱っている。
ハルはひょんなことから催眠術をかけられ、人の心が外見に反映して見えるようになる。
実際はデブでブスなのだが、心が奇麗なローズマリーは絶世の美女としてハルの目には映る、という案配。

必ずしもデブちゃんの心根が美しいとは限らないし、美人にも美しい心を持った人はいるだろう。
だが、それにしたって、美人かブスかで随分とスタートラインが違ってしまうこの社会は歴然と存在している。(※)
その不合理にファレリー兄弟は敢然と立ち向かう。
好きになったあの人の、一体どこに自分は惹かれたのだろうか。
見た印象だけで、その人を判断してしまっていいものだろうか。

小学三年生(84年)のときだったか。
僕はクラスの友人男子四人と、他に誰もいない放課後の教室に残っていた。
メンバーは先日「好きな人」を発表し合った仲間だ。
普段の教室でも、その内の一人が好意を寄せている女子にわざと話しかけて、そいつを歯噛みさせたり。あるいは歯噛みさせられたり。
このところの我々は幼稚な盛り上がりをみせていた。
もちろん、その中の誰一人としてお目当ての女子に告白などはしていない。

放課後、僕たちが集まったのはちょっとしたいたずらをするためだった。
ジャンケンをして、負けた者が自分の好きな女子のソプラノ笛(たて笛)を五秒間吹くというゲームが始まった。
本当は吹きたいくせに、ジャンケンに負けた者は身をよじってそれを拒絶する。
みんなで笑いながら取り押さえ、半ば強制的に笛を口にねじ込んだ。
小学生の女の子のお子様がいらっしゃる皆様。くれぐれもたて笛は自宅に持ち帰らせるよう、僕からの忠告になり大変恐縮ですが、お気をつけください。

好きな子の椅子に腰掛けるだの、机の中に消しカスを入れるだの、ここまではまだましだった。
おもむろに一人がズボンとパンツを脱いだ。
理由の分からない彼の行動に、他の皆が大騒ぎになった。
彼は自分の担当の女子の机の上に近づき、おしっこを一滴だけ垂らした。
今思えば、狂気の沙汰なのだが、この時はその一粒のおしっこがおかしくて仕方なく、しばし笑い転げていた。

一通りはしゃいだ僕たちは教室を出て下駄箱まで下りてきた。
その小学校の下駄箱には各収納に蓋が無く、靴は丸見えの状態である。
僕はその時に初めて気がついた。
僕の好きだった女子の上履きは、思いのほか汚れていた。
他の生徒の上履きとは一線を画す汚さだった。
まるで醤油で煮しめたような色合い。
僕はとっさに身体で遮り、他の皆に見えないようにした。
あろうことか、今度は女子の上履きにいたずらしようかと言い出す奴が出てきた。
その案を徹底抗戦で否決し、僕は難を逃れた。
僕は、彼女の上履きが汚れていたことにもショックを受けたが、たったそれだけのことで気分が萎んでしまった自分にもショックを受けた。
靴が汚れていただけのこと。
それが一体なんだというのだ。

「愛しのローズマリー」を映画館で一人鑑賞しつつ、僕はその出来事をぼんやりと思い出していた。
人が人を好きになることの根拠には、果たしてどんな本質が隠れているのだろうか。
ハルとローズマリーが、めでたく結ばれて欲しいと望む僕の心には、「愛」とかいうものを照れずに信じてみたい思いがあったかもしれない。
ブスはブスだ。大抵の男は美人が好きだ。
それを承知の上で、きれいごととしてでも信じてみたい。
そんな気にさせられた映画だった。

この難しい題材を、ファレリー兄弟はあくまでコメディの色調で綴る。
ローズマリーがスレンダー美人に見えているのは、ハルただ一人。
彼女がデブチンである事実に変わりはないのだ。
そのギャップに笑いが宿る。
そういう意味では、デブはデブだと、はっきり語っているとも言える。
この映画では、デブのことをデブとして笑い飛ばしてしまいたい。
そんなデブのことを好きになるのがうれしいのだから。

※美人が世の中で得をするかということに関して、「夏物語」の記事で触れています。→こちら(07年7月19日の記事です)


2007年08月13日

「ヴィレッジ」~泣ぐ子は見た~
M・ナイト・シャマラン監督

ヴィレッジ」(2004年

監督: M・ナイト・シャマラン
製作: サム・マーサー/スコット・ルーディン/M・ナイト・シャマラン
脚本: M・ナイト・シャマラン
撮影: ロジャー・ディーキンス
音楽: ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:
ブライス・ダラス・ハワード / アイヴィー・ウォーカー
ホアキン・フェニックス / ルシアス・ハント
エイドリアン・ブロディ / ノア・パーシー
ウィリアム・ハート / エドワード・ウォーカー
シガーニー・ウィーヴァー / アリス・ハント
ブレンダン・グリーソン / オーガスト・ニコルソン
チェリー・ジョーンズ / クラック夫人
セリア・ウェストン / ヴィヴィアン・パーシー
ジョン・クリストファー・ジョーンズ / ロバート・パーシー
フランク・コリソン / ヴィクター
ジェイン・アトキンソン / タビサ・ウォーカー
ジュディ・グリア / キティ・ウォーカー
マイケル・ピット / フィントン・コイン
フラン・クランツ / クリストフ・クレイン
ジェシー・アイゼンバーグ / ジェイミソン
チャーリー・ホフハイマー
スコット・ソワーズ
M・ナイト・シャマラン


【おはなし】

1897年、ペンシルバニア州。
森の中。その小さな村は、外界との交流を一切絶って生活していた。
青年ルシアス(ホアキン・フェニックス)がケガを負い、瀕死の重体となってしまう。
盲目の主人公アイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)は、彼への愛を胸に森の外へと助けを求めに行く。


【コメントー泣ぐ子は見たー】

小学生のときだったか、秋田県男鹿のなまはげをテレビニュースで初めて目撃したときは、心底驚いた。
手には出刃包丁、大きな鬼のお面、藁を身に纏った男達が民家に騒々しく上がりこんでくる。
家の者が泣き叫ぶ幼児を差し出すようにして、なまはげはその子に遠慮なく怒号を浴びせている。
主人が差し出した一升瓶をラッパ飲みし、やがてなまはげは帰って行った。

これが神事だとは、にわかには信じ難いものがあった。
あまりの過激さに、胸の奥がブブブと震える思いがした。
怖いものが具現化し目の前に登場している迫真性が、子供の絶叫から伺える。
得体の知れない恐怖と、幾分のおかしさを伴ったこの伝統文化。
なまはげへの畏敬の念と、愛着が僕の心に刻み込まれた。
なまはげ、どうぞうちには来ませんように!

こういった祝祭で面白く感じるのは、地元の人間がなまはげとして演技をしている点である。
例えば、普段材木を運んでいる気のいいあんちゃんが、この神事の間だけ神となって振舞うのだろう。
衣装を付け、声色を変え、動きもそれらしく、神になりきる。
演じる者がいることで、その場は劇的空間へと変貌し、人々の目にはいつもの風景が違って映る。
この錯覚にこそ、お祭りの醍醐味があるのだと思う。

映画「ヴィレッジ」は、森の奥地に孤立した一つの村の出来事を描いている。
彼らは、外界との接触を一切絶っていた。
自分たちの共同体だけで生活し、まるでユートピアのような世界を形成していた。
森を出ることは厳しく禁じられており、村の掟として子供たちにも教育されていた。

なぜ森を出てはならないのか。
それは、怪物がいるからである。
誰も怪物の姿を見たことはないが、そう信じられているのである。
もしかすると迷信かもしれない。
勇気ある若者は、外への関心を持ちはじめる。

まるでおとぎ話のような設定だが、映画に流れる不穏な雰囲気は、この先きっと何かが起こってしまうであろう緊張感に満ちている。
夜の場面が素晴らしい。
森の向こうは深い闇に包まれており、どこからか鳥か獣の鳴き声が聞こえるような気がする。
かつて人間は自然を恐れ、神や化け物の存在を創造したのだろうが、正にこの映画で描かれる暗闇や夜の静けさは、恐怖の対象として怪物を生み出すのに充分な気配があった。

姿の見えない怪物であったが、その存在は徐々に現実味を帯びてくる。
そこは映画だ、なまはげよろしく、やがて怪物はとうとうそこに現れる。
村人たちは、走って家へ戻り、ドアに鍵をかけ、地下室に逃げ込み身を潜める。
掟を破ったことで、神の怒りに触れてしまった。
怪物が無事、森へ帰ってくれるよう皆で祈るばかりだ。

映画前半の、村の掟にまつわる怪物との心理戦は、最高に面白い。
村人は怪物を創造しただけではなかったのか。
ドアの隙間から見えた、現実にそこに歩いているあの赤い二足歩行の獣はなんだ?
恐怖映画の緊張感と、ファンタジー映画のケレン味が、えも言われぬ融合を見せている。
なまはげファンには堪らないものがある。
よくぞ、あの空気を映画で描いてくれたと思う。

怪物が本当にいることが分かってから、映画は主人公に苦難を与える。
主人公のアイヴィーは、盲目の若い女性。
彼女が想いを寄せている、勇敢な青年ルシアスが大けがを負ってしまった。
愛のために、彼女は自ら立候補し村の外へ助けを求めに行くのだ。
そのためには怪物のいる森を抜けなくてはならない。
ただでさえ目が見えないというのに、恐ろしい旅が始まってしまう。

M・ナイト・シャマラン監督は「シックス・センス」という映画で一世を風靡した過去がある。
シックスセンスでは、映画の結末に意外な展開が待っており、その衝撃に観客たちはびっくりした。
以後、観客は彼に「大ドンデン返し」ばかりを求める傾向があった。
どうしてどんでん返さないのかと、シャマラン監督はいつも非難を受けているように見えた。
きっと彼は、どんでん返しのために映画を撮る人ではなかったのだと、その後の作品を見て僕は感じていた。
彼は、映画そのもの、物語そのものを解体する視点を持っていただけだったのではなかろうか。
普段見ている映画が、いかに安直な約束事の上に成り立っているかを、実に生真面目な態度で壊して見せてくれているのだと思う。

そして「ヴィレッジ」においても、シャマラン監督の純粋な映画への想いは、とんでもない映画解体を行ってしまう。
しかも、若い男女の「愛」を恥ずかしげもなく真ん中にテーマとして据え置いた。
なまはげの原理は、映画前半だけにとどまらず、全編に渡って描かれる。
革新的で、且つ懐かしい映画の風情を孕んでいる。
どんぴしゃりで、僕の心を捉えた映画だった。

散々家の中で暴れたなまはげが、帰って行く際に柱の角で小指をぶつけた。
思わず「いてっ」と彼は、いつもの材木屋の声を洩らしてしまった。
それを、泣きながらも少年の僕は見逃さなかった。
なまはげが材木屋のあんちゃんだということが、垣間見れてうれしかった。
…言うなれば、そんな映画だと思う。


2007年09月09日

「デス・プルーフ in グラインドハウス」~喋り過ぎにご注意を~
クエンティン・タランティーノ監督

デス・プルーフ in グラインドハウス」(2007年

監督: クエンティン・タランティーノ
製作: クエンティン・タランティーノ/ロバート・ロドリゲス/エリザベス・アヴェラン/エリカ・スタインバーグ
製作総指揮: ボブ・ワインスタイン/ハーヴェイ・ワインスタイン
脚本: クエンティン・タランティーノ
撮影: クエンティン・タランティーノ
プロダクションデザイン: スティーヴ・ジョイナー
衣装デザイン: ニナ・プロクター
編集: サリー・メンケ

出演:
カート・ラッセル / スタントマン・マイク
ロザリオ・ドーソン / アバナシー
ローズ・マッゴーワン / パム
シドニー・ターミア・ポワチエ / ジャングル・ジュリア
ゾーイ・ベル / ゾーイ
マイケル・パークス / アール
メアリー・エリザベス・ウィンステッド / リー
ヴァネッサ・フェルリト / アーリーン
ジョーダン・ラッド / シャナ
トレイシー・トムズ / キム
マーリー・シェルトン
ニッキー・カット
イーライ・ロス
クエンティン・タランティーノ / バーテンダー


【おはなし】

ギャルたちは休日を別荘で過ごすつもりだった。
車で向かう途中バーに入って、男を誘惑し、ハッパを吸って、いつもの通り奔放に振舞っていた。
そこへ、黒い車に乗った一人の中年男が現れる。


【コメントー喋り過ぎにご注意をー】

雑談が好きだ。
雑談は楽しい。
気の置けない友人達と、ただ喋るだけで僕は充分な満足を感じる。
どこかへ旅行へ行ったとして、観光地を巡ることよりも雑談することの方が重要である。
ファミレス(居酒屋)から旅先へ、ただ場所を変えただけのこと。
場所が変われば雰囲気も変わる。
雰囲気が変われば雑談の内容も変わる。
雑談のバリエーションの変化が楽しめる。
雑談のために旅行へ出ると言うのは、言い過ぎかもしれないが。
だが、それほどに、僕にとって雑談は欠かせぬものだ。

しかし、雑談が楽しいのは当人たちだけで、部外者にとってはこれっぽっちも愉快なものではない。
居酒屋でも電車でも、大声で話している連中のことを煙たく思う僕である。
「静かにしろ!」と若者をたしなめる老人が出現したときなどは、内心拍手を送っている。

先日「デス・プルーフ」という映画を観てきた。
この映画の大半は雑談で進行する。
いや、大して進行もしない。
ひたすらに雑談をしている模様が映し出される。

他人の雑談は退屈なものだが、この映画で雑談しているのは美女である。
長い脚と、ぷりっぷりのヒップを見せつけるようにして雑談している。
実にくだらない、聞いても何の得もないような話題(もちろん男の話題)を、とにかく喋り続ける。
いい加減にしたまえ、とイライラさせられもするが、もの凄い脚線美に釘付けになってしまったのも事実。
そしてこのイライラ感は、この映画に意図的に仕組まれたものだったと、後で知ることになる。

いわゆる「セクシー」を売りに生きている若い女性のキャラクターが、幾人も登場する。
黒人も白人も、金髪も黒髪も、一通りのアメリカ美女が全編に及んでスクリーンを満たす。
中でも一際目を引く美女が、ジャングル・ジュリアを演じたシドニー・ターミア・ポワチエ
シドニー・ポワチエと言えば、映画「いつも心に太陽を67年)」などの主演俳優である。
それはもう誠実な役柄に定評があり、アメリカで初めて成功した黒人俳優として映画史にその名を刻む名優である。
その娘さんが、あんなセックシー女だったとは、驚いた。
タランティーノ監督の意図を感じる。
父の硬派を逆手にとって、超軟派娘のキャラクターを作っている。
しかし、それ以前にシドニー・ターミア・ポワチエが魅力的な顔と肉体を持っていることに、疑問の余地はない。
この女優さんは、きっと売れます。もう売れてるのかな。

僕はアメリカに行ったことがないので、本当にアメリカのセクシーギャルがああいった喋り方や、表情をするものなのか知らない。
少々の誇張を忍ばせているであろうことは想像に難くない。
でも、クエンティン・タランティーノ監督の示すアメリカ感(※)には、毎度グッと来るものがある。
いつか見たアメリカの幻影がそこにはある。
今回の「デス・プルーフ」では、アメリカ美女の在り方が、アメリカB級映画のそれであった。
ホラー映画で襲われる美女。それと、アマゾネス的強靭美女。
映画の娯楽性を、タランティーノはカラッとした馬鹿臭さで表現する。
思わず「さいこー!」と叫びたくなるような映画を、彼は今回も作ってくれた。
この映画を「さいこー!」と評するような人物は、ちょっと信用しかねる。
だが僕自身は「さいこー!」だと思った。

タランティーノの映画は与太話
雑談そのものであり、僕はそれに同調したから最高だったのだ。
だが、誰かがこの映画を最高と言うことに関しては、それは他人の雑談の域に入るから僕には煙たい。
この心情、分かっていただけるでしょうか。

映画「デス・プルーフ」は、雑談のモデル級美女と、カート・ラッセルの男臭いおじさん振りが相まみえる、いびつな作品に仕上がっている。
一体どういう接点を持ってこの両者が出会うのか、見どころである。
どうでしょう、この映画で他人を気にせず「さいこー!」と叫んではみてはいかがでしょうか?

※タランティーノ監督の描くアメリカ感について「パルプ・フィクション」の記事でも触れています。→こちら(07年7月25日の記事です)


2007年12月28日

「オレの心は負けてない 在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい」~笑いは神の道~
安海龍監督

オレの心は負けてない 在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい」(2007年)

監督:安海龍
制作:在日の慰安婦裁判を支える会
プロデューサー:梁澄子
撮影:梁澄子 / 安海龍 / 朴正植
編集:田中藍子
効果編集:金徳奎
効果編集補助:李泰官 / 李ポミ
音楽:張在孝 / 孫晟勲
歌:朴保
ナレーション:渡辺美穂子

出演:
宋神道(ソン・シンド)
在日の慰安婦裁判を支える会


【内容】

16歳から数年間、従軍慰安婦を強要された過去を持つ在日朝鮮人宋神道(ソン・シンド)が、支える会の面々と共に国を相手取って裁判を起こした様子を追ったドキュメンタリー。
宋おばあちゃんの激烈なる個性に引っ張られ、周囲は困惑し、笑い、また感涙する。


【コメントー笑いは神の道ー】

世の中には、凄まじい魅力を持った人がいる。
彼らは市井に紛れ込んでおり、ある時は居酒屋の客かもしれないし、ある時は工事現場のとび職かもしれない。
彼らの面白さは周囲の関心を惹き付け、ちょっとした名物人間として各地に生息している。
彼らのことを、「在野に潜む国の宝」と僕は思っている。
僕はこの十数年間でアルバイトを転々としてきたが、ごくたまに、彼らと出会う機会があった。
宝に接触できた職場は当たりである。

また、在野から世間に登場する例もしばしば見られ、有名なところではタモリが挙げられる。
山下洋輔赤塚不二夫といった面々が彼を引っ張り出したことは有名である。
畑正憲(ムツゴロウさん)もまた、大きな分類では、世に出てきた宝の一人と言えるだろう。

最近だと、夜回り先生こと水谷修氏は、僕の心を鷲掴みにしている。
あの情感に満ちた講演をご覧になったことがおありでしょうか?
僕はテレビで拝見し、釘付けになってしまった。
豊かな表現力と、混じりけなしの真剣さ。
疑問を挟もうとする者がいたとして、その無垢なまでの眼差しに返り討ちにあってしまうことだろう。

そして、僕の知ったる全ての至宝たちから頭ひとつ抜けて、天才的に面白い人物がとあるドキュメンタリー映画に出演している。

先日、東京の東中野にある映画館、ポレポレ東中野のモーニングショーにて鑑賞した、「オレの心は負けてない」の宋神道(ソン・シンド)は、稀代のエンターテイナーだった。
主人公が映画そのものに勝っている様子を、久々に目の当たりにした(※)。
宋さんが映るだけで映画は勢いを増し、俄然おもしろくなる。
映画的技術や構成や音楽などが余計に思えてしまうほどに、宗さんの魅力は圧倒的だった。
宗神道の言動一つ一つに僕は大笑いをさせられ、また涙を禁じ得なかった。

さて、「従軍慰安婦」と聞くと大抵の人は構えてしまう。
戦争の傷痕、取り返しのつかない悲劇、目を背けたい事実、陰鬱、暗澹。
ましてや、国に対して謝罪請求をするとなると、誰しも肩に力が入ってしまうもの。
見ているこちらは、半ば緊張した態度でこの映画に臨んだ。

最初は支える会のメンバーも、それなりの気負いを持って宗さんに接していた様子が伺える。
ところが、当の宗神道はと言えば、ユーモアセンスに長けた東北弁のおばあちゃん。
支える会の面々を、マスコミを、聴衆を、笑わせる笑わせる。
由々しき事態の被害者当人が、こんなにも朗らかで、それでいて熱い人であることに、僕は全く度肝を抜かれた。
マシンガントークと呼ぶにふさわしい口調は、訛りが剥き出しの名調子。
立て板に水を流すがごとく、一体どこからこれだけのスピードで珠玉の言葉が溢れ出てくるのか、まったく感服させられた。

時に辛辣に、時に涙を交えながら、最後は笑いをとりながら、彼女は訴えていた。
従軍慰安婦というものが実在したこと。
二度と戦争なんて起こしてはならないということ。

辛い過去について、神様におすがりしないの?と韓国人のおばさんに温かく言われたのに対し宗神道は猛然と反論する
「神様なんていないよ、そんなもん。いないいない!冗談じゃないよ。いない!」
そんなこと言わないで、と宗さんの手をとった彼女に対し、
「あんた、手冷たいね。血圧低いんだろ?」
と返す。
沸点に達した怒りと、相手を思いやる優しさを同時に発信すれば、周囲は笑わざるを得ない。
宗神道のサービス精神は、常に周りの人々を楽しませる。
それは第一審で敗訴した際にも発揮された。
判決の出た晩、とある和室で支える会のメンバーは控訴するか否かを、宗に問う。
悔しくて落ち込んだ支える会の面々に対し、こともなげに宗神道は言う。
「やったってしょうがないよ」
支える会は、この程度のことでへこたれてはならぬと、抜けた力を奮い起こして宗に控訴を勧める。
「どうせ、また負けるだろ」
宗はまるで諦めた態度を示す。
そうなると、支える会の彼女たちも黙ってはいない。
熱を込めて説得し、勝つまでやらなきゃならないと腰を浮かせる。
と、宗はメンバーの一人を指差す、
「お前、覚悟があんのか?お前には家庭も生活もあって、また裁判できるのか?」
「できる!」
「よし、わかった。それじゃやる!誰が止めたってやる!首が飛んでもやる!あはは!」
こんな具合で宗神道と支える会の面々は東京高裁に乗り込むことになるのである。

宗と出会ってからの15年余りを振り返り、支える会のメンバーは「最初はこの人と一緒にやることに不安があった」「なかなかこちらのことを信用してくれないのが大変だった」といったことを語っていた。
宗はこれまで並の人間には考えられないような過酷な境遇や人の裏切りと格闘してきており、簡単に他人を信じるのが難しかったのだろう、と支える会もこの映画のナレーションもそういうふうに述べていた。
僕はそうは思わなかった。
一見すると、叛骨で凝り固まった猜疑心の強い人物だが、それは相手を慮ってのことだったのではないだろうか。
いつだって人は人を裏切るものだし、大丈夫だと言ってもそうはならなかったりするものだし、宗神道が時折見せる諦観は、適当なことを言って周囲に迷惑をかけたくないという配慮だったと思う。
「(裁判に)勝ったって負けたって、どうなるもんでもない」「国も裁判所も大変だろうけど」という発言の奥には、ただ単に活動を起こして在日慰安婦への保証を認めさせるということではなく、皆で世界平和へ向かおうよという高い視点が感じられる。
マザー・テレサとはまた違ったアプローチで、彼女は平和や他人への優しさを訴えているに違いない。

宗の身体には刀痕がある。日本人の軍人に切りつけられた痕だそうだ。
また腕には「かね子」という慰安婦時代に刻まれた刺青が残っている。
終戦後軍人に誘われて日本へ渡ったが、プイと捨てられてしまう。
一切の荷物も身分を証明するものも持たぬ彼女は、電車から飛び降りて通行人に拾われる。
近所に同じく在日朝鮮人である男性がいるということで、一人暮らしの彼のおうちへ引取られ、煮炊きをして過ごすことになる。
彼が亡くなるまで、夫婦としてではなく恩人としての彼と生活をする。

これだけ聞くと、宗さんの数奇な人生を他人ごととして、過去のことして認識してしまいそうだが、彼女を見ればそんなことは思わない。
戦争は個人に多大なる被害を及ぼすということが分かる。
どこかの誰かにではなく、自分にである。
僕や、僕の家族や、友人が、徹底的に酷い目に遭うのが戦争であるのだと思う。

宗神道さんは、ある種の悟りを開いておられるのではないかと思うが、国や人種や性別など無関係に人として正しく優しく楽しく生きようという姿勢には、その差別を一身に浴びた当事者の彼女ならではの説得力を感じた。
「俺は稼いだ金をみんな飲んで使っちまったからな」と言い放つ顔には、平和を訴えども聖人君子などではないよ、という照れが浮かんでいた。
ほとんど芸人のそれである。
宋神道、神の道を僕も見習いたい。

80歳を超えた今も、元気でいらっしゃるようです。
一人暮らしを続け、飼犬の散歩をしている様子があった。
何しろ彼女は在野に潜む日本の、いや世界の至宝だ。
下手に表へ出すのは勿体ない。

しかし、もし機会があれば、是非講演を聞きに伺いたいと僕は切に願う。
語弊を恐れずに言ってしまうが、これほどのおもしろい人は滅多にいない。
本当に素晴らしかった。


※主人公が映画に勝ってしまうことについてはクリント・イーストウッドに触れた記事で書いてます→こちら(07年6月22日の記事です)



2008年07月29日

「ランボー 最後の戦場」~暴力に背を向けて~
シルベスター・スタローン監督

ランボー 最後の戦場」(2008年

監督: シルベスター・スタローン
製作: アヴィ・ラーナー /  ケヴィン・キング・テンプルトン /  ジョン・トンプソン
製作総指揮: ランドール・エメット /  ジョージ・ファーラ /  アンドレアス・ティースマイヤー
フロリアン・レクナー  /  ダニー・ディムボート  /  ボアズ・デヴィッドソン /  トレヴァー・ショート
キャラクター創造: デヴィッド・マレル
脚本: シルベスター・スタローン /  アート・モンテラステリ
撮影: グレン・マクファーソン
プロダクションデザイン: フランコ=ジャコモ・カルボーネ
衣装デザイン: リズ・ウォルフ
編集: ショーン・アルバートソン
音楽: ブライアン・タイラー

出演:
シルベスター・スタローン / ジョン・ランボー
ジュリー・ベンツ / サラ・ミラー
ポール・シュルツ / マイケル・バーネット医師
マシュー・マースデン / スクール・ボーイ
グレアム・マクタヴィッシュ / ルイス
レイ・ガイエゴス / ディアス
ティム・カン / エン・ジョー
ジェイク・ラ・ボッツ /  リース
マウン・マウン・キン
ケン・ハワード / アーサー・マーシュ


【おはなし】
ランボーは何故かミャンマーに住んでいる。
毒蛇を捕まえたり、鍛冶屋のようなことをやりながら生計を立てている。
そんなミャンマーでは、日々軍隊が村人へ迫害をくわえているのだった。
傷ついた村へ、薬を届けようと、とあるアメリカの医師団が乗り込んでくる。
ランボーに道案内を依頼するが、彼は断固としてそれを断る。
「GO HOME!」
ランボーはそれを繰り返すばかりであった。


【コメントー暴力に背を向けてー】

中学2年(1989年)のある一時期、学年のワル達の間で「じゃんボク」が流行していた。
じゃんボクとは、じゃんけんボクシングの略で、彼らが創作した遊戯のことである。
休み時間になると連中は4、5人集まってじゃんけんを始める。
じゃんけんで最後まで負けた者一人が、罰ゲームとして勝者全員から一発ずつ上腕を殴りつけられる。
そして、また次のじゃんけんを始める。
ワル達はこれを休み時間の間ずっと続けている。

かつてないほど単純且つ野蛮なこの遊びを、彼らは嬉々として興じている。
彼らだけで楽しんでいる分には問題はないが、ワルでもない連中、言わばこちら側の連中の中から必ず一人が参加させられるのが厄介だった。
手近にいる誰かに適当に目をつけ、「来いや!」と輪の中へ引きずり込む。
「ジャンケンに勝ったら殴れるんやけ、ええやろうが」とワル達の言い分はこうだ。
殴って嬉しいというサディスティックな快楽など、こちらの連中は誰一人として持ち合わせていない。
そして、仮にジャンケンに勝ったとしても、ワルを殴るのはとても勇気のいることである。
気の弱い者がじゃんボクに巻き込まれた場合、彼はジャンケンで勝ってもワルの腕にソッとタッチする程度に触れるだけである。そして負けた場合は、したたか殴りつけられる。理不尽この上ない。

勿論僕も被害者の一人で、右腕に内出血の痣を作ってしまったことがある。
彼らに捕まると容易に断ることはできない。
嫌だと言えば、じゃんボク以前に殴りつけられることになってしまうだろう。


こんなことが続いてはかなわんと、我々被害者の会が考案したのは、追いかけっこ逃亡法であった。
休み時間、ワル達が二人以上の複数となったのを発見した時点で、もしくは複数人になりかけた時点で、僕が大声で友人の名前を叫ぶ。名前を呼ばれた彼は一目散に教室から飛び出す。
「待て!」と僕は彼を追う。更に適当な奇声でもあげながら皆も僕に続く。
廊下を抜け階段を下り、遠く技術室辺りまで走りきる。ここまで来れば安心である。
要は目をつけられる前に逃げてしまおうという作戦である。
追いかけっこ自体には何の根拠もない。理由もなく唐突に追い追われするのがばかばかしく、「待てこら!」と呼びながら、ついつい笑ってしまう。
逃げのびた安堵の思いも相まって、技術室前に着く頃には全員で大笑いをしている。
この作戦は実にうまくいき、以来じゃんボクには一度も捕まらなかった。

それにしても、ただ殴り合うだけなどという遊びは、到底僕には思い付かない。
暴力のみでコミュニケーションをとろうだなんて、まるで戦争ではないか。


そう、戦争と言えば「ランボー」最新作である。
スタローンはこの作品で暴力と真正面に向き合っていた。
戦争の「虚無」をここまで見事に描いた作品を最近見た覚えはない。

老境に差し掛かった彼が今あえてランボーをやるとはどういうことだろう。
久しくスタローン映画に触れていなかったのだが、「もしや」という期待が脳裡をかすめ、新宿の夜、仕事帰りに映画館に駆け付けた。

ランボーシリーズ80年代に三本撮られている。
ランボーという男はベトナム戦争が生んだモンスターである。
一体あの戦争は何だったのか、彼の自問は続き、自問の続く限り、彼は戦う。
しかし、そうは言っても世は平成である。
いくらアメリカ人の心の傷が未だ癒えぬのだとしても、ランボーが現代に生きることの根拠は薄弱だと僕は思っている。
果たして彼が何のために戦うのか知りたくなったのだ。

ところが、今回監督も務めたスタローンはそんなことは百も承知であったことを、映画が進行するにつれ僕は思い知らされる。
ランボーが現代において何故戦うのかなど、愚問であった。
本作で彼は、なんと彼自身のために戦うのだった。
彼は戦士である、がゆえに戦う。無茶苦茶な論理である。
無茶苦茶ではあるが、これ以上ランボーらしい存在意義は他に見当たらないのではないかと、大いに納得させられた。
大義名分を持たずに、国家のためでもなしに、戦場へ赴く。
とある登山家がなぜ山に登るのかと尋ねられ、「そこに山があるから」と答えた、あの禅問答のような会話のごとく、ランボーは言うだろう、「だってそこに戦場があったから」
最早、不条理の領域である。

誰に頼まれもしないのに(むしろ帰ってくれと頼まれたのに)、彼はベトナムで叩き上げられた戦術を駆使して敵を倒す。
しかも強い。無敵。
ここで言う敵とは、今回の件でたまたま敵という位置におさまってしまったミャンマー軍事政権下の軍隊のことである。
ランボーはただの戦士なので、基本的にはどちらの味方というスタンスは持たない。
状況が変われば軍隊に加担することだってあり得るだろう点が、大変おもしろい人物像だと思った。

軍隊は、地方の村民を容赦なく迫害、虐殺している。
この内紛の絶えない危険な土地に、正義感溢れるアメリカ人の医師団が薬を届けようとやって来る。
彼らは村までの道案内をランボーに依頼する。
最初は断っていた彼だったが、医師団の中の女性に淡い恋心を抱き、依頼を飲む。


今回のランボーで見逃せないのが、この淡い恋心である。
戦いに対するランボーの信念は彼のナレーションからもよく分かった。
だが、恋をしたランボーについては、一切語られはしない。
この映画では、恋にまつわる会話や行動は全く出て来ないのであるが、だがランボーが彼女に気があるということは明白に伝わってくる。
この奥ゆかしさは、恋愛映画として一流の出来なのではないかと思う。
映画に男女が登場すれば、きっと観客の誰もが二人の恋の行方を気にかける。
観客のほのかな期待に乗っけて、最小限度の恋愛描写でその顛末を見せ切るのは、大層高度な技術ではないだろうかと感心してしまった。

淡い恋の物語を吹っ飛ばすかのように、村は軍隊に襲われる。
医師団は無事村人に医療を届けたのだが、唐突に軍隊の砲撃を受ける。
映画でこんなに過激な見せ方ができるのかというほどの強烈な戦場場面である。
爆撃が人々を襲う様は、その場に居合わせているかのような臨場感に溢れている。
人が吹っ飛び、ちぎれ、切断され、至近距離から銃撃される。
この残虐な描写は有無を言わせないものがあり、正しく戦場とはこれほど酷いものだと伝えている。
ここがこってりと描いてあって始めてテーマが浮かび上がる仕組みである。
観客は目を逸らさずに、うんと味わうべきである。
ただの悪趣味な残虐嗜好ではなく、本気でスタローンは映画(虚構)として戦場を描くことに燃えていたのだと思う。
とうとう軍隊は、白人の医師団を捕らえて本拠地へとさらって行く。

当然ランボーは彼らの救出に立ち上がる。
暴力に対して、目一杯の暴力で反撃を食らわすつもりである。
敵陣に乗り込んだ彼は水を得た魚のように活躍する。
だが全てが終わったとき、ランボーの胸に吹き荒れる虚無と孤独の風は、ああ、なんと寒々しいことだろう。
人を殺し、殺され、後には何も残らない。
一体この戦いは何だったんだろうかと、呆けるしかない。
客席の僕も、ただ呆けていた。
虚無のランボーと虚脱の僕とが、そこにいた。
戦争は、暴力は痛そうだからやめておこうよ、と僕はぼんやり思うのであった。


この映画でスタローンの好演は光っていた。
無口な男はただじっと相手を見つめるばかりである。
こんなに切ない男は、やはりスター俳優にしか演じることはできまい。
もはやピークを過ぎた俳優。
どうせランボーロッキーしかないんだろ、と罵られる俳優。
怒りは胸の中で沸々と煮立っており、それをグッと堪えたところに彼の演技は確立されている。
必見である。


さて、参加人員の減少のためか、やがて彼らのじゃんボクブームは下火になっていった。
我々のずさんな回避作戦のことを、実はワル達も気付いていたのではないかと思う。
敢えてそこを追及して来なかったのは、彼らが大人だったからか、はたまた呆れてしまっていたからか。

いずれにせよ、暴力が横行した際に僕に今できることと言えば、近づかないことと、逃げることだろうと思う。
ランボーを是非とも反面教師とさせていただきます。


2008年08月25日

「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」~待ちに待ったスピルバーグ~
スティーブン・スピルバーグ監督

インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」(2008年

監督:スティーヴン・スピルバーグ
製作:フランク・マーシャル
製作総指揮:ジョージ・ルーカス / キャスリーン・ケネディ
キャラクター創造:ジョージ・ルーカス / フィリップ・カウフマン
原案:ジョージ・ルーカス / ジェフ・ナサンソン
脚本:デヴィッド・コープ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
プロダクションデザイン:ガイ・ヘンドリックス・ディアス
衣装デザイン:メアリー・ゾフレス
編集:マイケル・カーン
音楽:ジョン・ウィリアムズ

出演:
ハリソン・フォード / インディアナ・ジョーンズ
シャイア・ラブーフ / マット・ウィリアムズ
レイ・ウィンストン / ジョージ・マクヘイル
カレン・アレン / マリオン・レイヴンウッド
ケイト・ブランシェット / イリーナ・スパルコ
ジョン・ハート / オクスリー教授
ジム・ブロードベント / ディーン・チャールズ・スタンフォース
イゴール・ジジキン
アラン・デイル


【おはなし】
インディジョーンズは実は大戦の頃のお話なのです(ナチスとかが出てきます)。
今回は米ソの冷戦時代1957年が舞台。
そう言えば十年ほど前にグラハム・ハンコックという人が書いた「神々の指紋」という著書が流行しましたが、あれにオーパーツというものが紹介されていました。
クリスタルスカルとはそのまんま水晶髑髏のことで、そのオーパーツを巡ってのひたすらアクションです。


【コメントー待ちに待ったスピルバーグー】


上映までにはまだ随分時間があった。あと一時間半以上ある。
その日、新宿のとある映画館でスピルバーグの新作「インディジョーンズ クリスタルスカルの王国」を見るつもりだったのだ。
まずは映画館へ行き、先にチケットを購入した。
整理券は配布しないので早目に来て下さいと、チケット売り場の彼女は言った。
上映開始の30分前に戻って来るとしても、その時刻までたっぷり時間があった。

近くのカラオケ店に一人、堂々たる態度で受け付けし、誰も聞かない歌声を自分自身のためだけに張り上げて、ようやっと一時間の時間を潰した。
このところ、たまのカラオケに行く時は、こういった時間潰しで一人のことが多い。
捨て曲をかけておく間に、選曲しまくるというケチな技が身についた。

映画館へ戻ってみると、既に長蛇の列ができていた。
7月の土曜日、スピルバーグの新作で、しかもインディジョーンズともなれば、おのずと客席は埋まるものだろう。
最後尾へ到着し時計を見ると上映まであと40分あった。
本を読みつつなんとかやり過ごそうとするが、前に並んだ二十代前半の男二人の会話が耳につく。
サチコだかいう女が、いい奴なのか悪い奴なのか二人の意見は割れているのだが、いずれにしても二人ともがサチコを好きに違いないことが窺えて、聞き耳を立てているこちらとしては大変もどかしい。

やがて前の回の上映が終了した。
客が退場し、いよいよ我々待機組が入場を許可された。
振り返れば後方にも列は長く続き、久々に満席の中での映画鑑賞になるのではないかと、期待は高まった。
アクション・アドベンチャー映画なんてものは、たくさんの人達とワイワイ騒ぎながら見る方が楽しかったりするのだ。

無事、席は確保できた。
満席立ち見とまではいかずとも、まんべんなく埋まった客席はザワザワと騒がしい。
いつか見たスピルバーグ映画の幻影を、未だに追っている人たちなのかもしれない。
きっと素晴らしいことが、これから眼前で起こるに違いないという期待に館内は満ちていた。
しかし、上映までまだ15分はある。
売店に行ってみると長い列ができていたので、コーラは諦めて席に戻った。
改めて本を鞄から取りだしてみるものの、どうも落ち着かないので読むのはやめた。
こうなったら、上映が始まるのをじっと待ってやるのだと、開き直ってゆっくりと座席に深く座った。

目をつむって、これまでのインディ・ジョーンズを頭の中で反芻してみる。
最初に観たのはシリーズ二作目の「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」(1984年)だった。
小学校2年生のときの夏休み、親に映画館へ連れて行ってもらった。
あまりに面白かったので、夏休みの宿題の絵画にインディ・ジョーンズの一場面を描いて持って行った。
一作目の「レイダース」(1981年)はその後、床屋で見た。
これも小学生の時、近所の床屋に散髪に行くと、設置のテレビで放映されていた。
と、この辺りまで回想していたときに、いよいよ客席は暗くなった。

しかし、まだ始まらない。本編前にコマーシャルや予告編が10分は流れる。
それも待つ。
僕は予告編というのがあまり好きではない。
今後見るかもしれない映画の断片が、先に分かってしまうのはなんとも勿体無い気がするのだ。
なので、予告編はなるべくまあまあの態度で、それほど本気で見てませんよという抑制を利かせながら、なんとはなしに過ごすようにしている。

と、おかしなことが起こった。
予告編に引き続き、必ず流れるのはドルビーサウンドを聴かせる映像と、映画館ではカメラ撮影してはいけませんという警告映像であるが、これが音だけ聞こえてスクリーンは真っ暗なままなのだ。
僕は嫌な予感がし、後方の映写室を見上げた。
特に係員が動く気配は感じられない。

しかし、不安は的中した。
明らかに本編が始まったにも関わらず、音だけが進行し映写されないのである。
ゴー、ドカ、ブオン、ガー、といった音だけが暗闇の映画館に響く。
さすがに客席もざわつき始めた。
後ろを振り向く者もちらほらいる。
どうなっているのだろうか、依然として音だけの上映は続く。
場内は暗いまま、係の者も出て来ない、アナウンスもない。

僕は立ち上がってロビーに出てみた。
既に一人のおっさんがバイトの青年であろう映画館の者に状況説明を求めていた。
売店が空いていたので、僕はコーラを買った。
客席に戻ると、まだ暗闇の上映は続いている。
ざわつきの中には怒声も混じりだした。

「映写室ー!映写室ー!」という中年女性客の声が館内に響く。
ようやく係の男が一人現れ、大声で弁明を始めた。
「ただいまトラブルがあり、上映できる状態にありません!復旧を進めておりますので、しばらくお待ち下さい!」
映写室ー!、の女性は「こんなことあってはならないことですよ!」と怒りを顕わにしていた。
まったくこんなこと、僕も生まれて初めての経験である。
「ちゃんと、巻き戻して上映してくださいね!」彼女の言った「巻き戻し」という言葉が、僕はやけにおかしく感じた。まるでビデオの巻き戻しのようで。

ところが、観客の怒りをよそに暗闇の上映は終わらない。
映画を音だけで見るとは、餃子を皮だけで食べるようなものである。
皮と具が相まって、そこで奇跡が起こるのである。
一体いつまで待たされるのだろう。
予告編ですら、先に見たくない僕である。
音だけでも先に感得するのは勿体無いと思い、ロビーに出ることにした。

「だから謝れって言ってんじゃないんだよ。どうするのかって聞いてんの」
平謝りの係員に対し、中年男性が叱りつけている。
僕も店員というバイトをしたことがあるが、100パーセント店側に落ち度があるときは、ひたすら謝ってお客さんのお叱りと言い分を聞き続けなくてはならない。
あの身の毛もよだつ謝罪の時間帯は苦しい。
心の中で、がんばってねと係員にエールを送り、僕はロビーでグッズ等を見て回った。

しばらくして客席に戻ると、ようやく音上映は終了して、場内は明るくなっていた。
上映開始から20分は経過していた。
係員が出てきて、またしても唐突の説明が始まる
「大変申し訳ございません!現在映写機の復旧のめどがたっていない状況です!申し訳ございませんが、この16時20分の回は上映を中止とさせていただきます!ロビー受付の方で・・・」
払い戻しが始まった。
もしくは、一旦外出する方には次回19時の回に入場できるよう半券にハンコを押すという説明だった。
ほとんどのお客さんがぶつぶつと不平を述べながら劇場を去って行った。
僕もそうしたいところではあったが、今度いつ見に来られるか分からないし、今外に出ても新宿の空の下何もすることがないので、腹を決めて館内で待機することにした。
もうひたすら待つのだと自分に言い聞かせた。

思えば、シリーズ3作目「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」が89年、当時中学生だった僕は友人と映画館に観に行った。
以来、四作目の噂こそ耳に入ってきていたが、とうとう20年の時が経っていたのだった。
その間、待望の念をひたすらに募らせて、いや、事実としてはそれほどに待っていたわけではないのだが、四本目をやるよと聞いたならば、じゃあ見に行くよと思うのが人情だろう。
20年待ったのだから、ほんの数時間くらい待ったっていいじゃないか。
数人の客を残した館内は、静まり返っていた。
ど真ん中の席に移動し、僕はいつしか眠っていた。

眼が覚めると、既に館内は暗くなっていた。
19時の回が始まり、見覚えのある予告編が流れていた。
危うく寝過ごすところだった。
氷の解けたコーラを一口飲み、座りなおした。
まるで何事もなかったかのように映画は始まった。

上映されたのは紛れもなくインディジョーンズだった。
あれから20年の時が流れたとは到底信じられなかった。
ハリソン・フォードが年老いたことなど、この際どうでも良い。
僕が驚いたのは、当時と全く変わらぬバカバカしさで映画が彩られていたことだ。

スピルバーグという監督の立場は、この20年間で随分と変わったはずだった。
シンドラーのリスト」(1993年)や「ミュンヘン」(2005年)など社会派のドラマを手がけ、最近では北京五輪の開会式の演出を中国の政治的未熟について指摘した上で辞退している。
世界で最も客を呼ぶ映画監督であるがゆえに、彼の言動には否応無しに社会的な意味が付随してしまう。
ふざけてばかりもいられない地位に、もう立ってしまっている。

そんな彼が誰よりも柔軟な頭で、徹頭徹尾アドベンチャーアクションを描き切る。
目の前に繰り広げられる下らないアクションシーンの連鎖には、「意味」などない。
ただただ、おー!だの、危ねー!だの言っていればいい映画だった。
あらゆるスピルバーグへの賞賛、非難の声は、この作品を前に雲散霧消してしまうだろう。
これまでの実績も何も、かなぐり捨てて彼はただアクション映画を撮っている。
僕の印象では、過去のシリーズ三本と比較して全く衰えてもいないし、全く進歩もしていない。
同質にくだらなくて、同等に笑える。

一体僕は、スピルバーグの何に期待していたのだろうか。
きっとまたアクション連発の楽しい作品を見せてくれるだろうとは思っていたが、まさかこれほどまでとは。
観客である僕の方が、余計な気負いを持ってこの映画を待っていたのかもしれない。
もっと「まともなこと」を要求する下手に大人びた自分。
二十年という時の流れに、僕自身が曲がってしまっているということにハタと気付かされたのだった。
またしてもスピルバーグにやられてしまった。

ハリソン・フォードがシルエットで帽子を被る登場シーン。
バイクで登場のシャイア・ラブーフは、あたかも「波止場」(1954年)のマーロン・ブランド(スピルバーグの場合、オマージュではなくパロディになるのがとてもいい)。
磁力によって蓋にペシャリと張り付く眼鏡。
疾走する二台のトラックでの攻防では股間に注意。
爆発の危機は冷蔵庫で切り抜け、滝とあらば落下し、地下に入れば崩落のピンチ。
スピルバーグ印(じるし)の演出が満載である。

楽しかった。
エンドロールの最後まで見届けて映画館を出た。
新宿は夜になっても明るい街だが、昼間の暑さは幾分おさまっていた。
待った甲斐はあった。
あったに違いない。
なぜなら、今回の上映中止の件にかこつけて、帰りに受付で「ハムナプトラ3」の前売り券をせしめてやろうと目論んでいたことを、すっかり忘れていたのだから。


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