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「トッツィー」~化粧の内側の本音~   
シドニー・ポラック監督

トッツィー」(1982年

監督: シドニー・ポラック
製作: シドニー・ポラック/ディック・リチャーズ
原案: ラリー・ゲルバート/ドン・マクガイア
脚本: ラリー・ゲルバート/マレー・シスガル
撮影: オーウェン・ロイズマン
編集: フレドリック・スタインカンプ/ウィリアム・スタインカンプ
作詞: アラン・バーグマン/マリリン・バーグマン
音楽: デイヴ・グルーシン

出演:
ダスティン・ホフマン
ジェシカ・ラング
テリー・ガー
ダブニー・コールマン
チャールズ・ダーニング
ビル・マーレイ
シドニー・ポラック
ジョージ・ゲインズ
ジーナ・デイヴィス
ドリス・ベラック


【おはなし】

売れない俳優ドーシー(ダスティン・ホフマン)は、女装してテレビドラマのオーディションに合格する。
女として撮影現場で振舞い、視聴者の人気を得るが、共演者の女性に恋をしてしまう。


【コメントー化粧の内側の本音ー】

一度だけ化粧をしたことがある。
95年、二十歳の頃のこと。友人の女性がおもしろ半分に僕の顔に化粧を施した。
顔へ塗装する違和感に、目をつむったままウズウズしていた。
その友人は一々笑いながら作業を続ける。
一体どんな顔になるのか、見たいような、見たくないような。
一通りのメイクが終了し、最後に手鏡を渡された。

鏡を覗く瞬間、僕の脳裏に恐怖感が閃いた。
この手鏡を覗いたとき、僕はどんな気分になるのだろう。
気持ち悪いと思うのだろうか、気持ちが良いと思うのだろうか。
もし万が一にも「キレイ…」などと感じてしまったら、僕はどうすればいいのだろうか。
自らの感情をコントロールできない領域に、よもや彷徨い込んでしまわないだろうか。

小学校の時の阿蘇山見学、活火山の火口を覗いた時と差もない心境で、僕は手鏡におそるおそる顔を近づけた。
目に入ってきた人物は、紛れもない自分であるのだが、どこか他人のようにも見えた。
鏡の中の自分は笑っていた。
数秒見つめ合い、ぱっと眼を逸らしてしまった。
これ以上は正視できなかった。
恥ずかしいのとは違う、何か禁断の匂いがした。
化粧ごっこなど、冗談でも応じるんじゃなかったと後悔した。

化粧とは、正に変身のことだと思った。
外見が変身すること以上に、内面の変身に劇的な効果を生むものだと思った。
僕は、鏡に映ったあの自分の顔を忘れない。
何故か笑っていたのです。
自嘲的で、まるで僕のことを見透かしたような目つき。
いや、全く、驚いた。
裏側から自分を見つめるような、そんな体験だった。
ただ単に、お化粧しただけのことなんですけども。

映画「トッツィー」はよくできたコメディである。
ダスティン・ホフマン演ずるマイケル・ドーシーは売れない俳優。
病院もの昼ドラマで婦長さん役のオーディションがあり、彼は女の振りをして見事合格を勝ち取ってしまう。
役を得るために女性に扮したのだが、婦長役の人気が沸騰してしまい後戻りのできない状態に陥いる。
そんな折に、共演する女優(ジェシカ・ラング)に恋をしてしまう。
俳優生命を維持するには女性のままでいなくてはならないが、彼女に告白するには男に戻らなくてはならない。
逆に彼女から恋の相談を持ちかけられたり、彼女の父親に言い寄られたりと、女性であるがゆえの面倒臭い災難は次々に襲ってくる。

この映画は、小学生の頃(82年88年)にテレビ放映で何度も観た。
ダスティン・ホフマンの「卒業1967年)」も「クレイマー・クレイマー1979年)」も「真夜中のカーボーイ1969年)」も見る前だったので、てっきりコメディアン寄りの人だとばかり思っていた。
すぐアル・パチーノと区別がつかなくなるので、「マフィアがパチーノ、コメディアンがホフマン」と覚えていた。
そして日本語吹替は、小松政夫が担当していた。
小松政夫の「女声」が印象にあったので、先日DVDで見直すにあたってダスティン・ホフマンの声が馴染めるのだろうかと懸念していたのだが、これが驚くほど違和感がなかった。
少々わざとらしいくらいの女声で、ダスティン・ホフマンはよくやっていた。
小松政夫がよくやっていたとも言える。

改めて見直して思ったのは、ダスティン・ホフマンの相手役のジェシカ・ラングがやけに可愛いということ。
80年代70年代の映画を見直すと、出てくる俳優にいちいち「…若い」と呟くことになる。
ジェシカ・ラングが「可愛い」という事態が、かつてあったのだ。
実にチャーミングで、この映画のゲテモノ感は彼女の存在によって完全に払拭されている。

女性の立場から世の中を見つめたドーシーは、男性の身勝手を随所で足蹴にする。
翻って、男性に戻ったときのプレイボーイなドーシーは、身勝手に女性に接している。
あまり自己反省や、深刻なフェミニズムに傾かないところが、この映画のコメディを維持している。
あくまでラブ・コメディである。
化粧によって、別な人物になり変わる。
「変身」がモチーフの映画的面白さを堪能できる作品である。

いや、傍から見る分には面白かったが、僕は自分が化粧をしたことにタダならぬ意味を感じていた。
笑えない「意味」の奥には、世のほとんどの女性が毎日化粧をしていることへの驚きが含まれていたと思う。
毎日変身してから他人と接するとは、皆様大した俳優だなあと感嘆せざるを得ない。
僕はもうへどもどするばかりで、すぐに洗い流してしまった。


コメント (2)

トラ猫アダム:

 今晩は吉田様。ご無沙汰しております。
 『トッツイー』の記事、読ませていただきました。
私もこの作品に“オモシロイ”との感想を持っている1人です。
 自分の姿をもう一つの異なる立場からみたら人はどうなるのか、との点でこうした作品は文芸でも演劇でも試みられた分野ですね。この作品では二つの姿で人をとらえようとしていると感じました。
 一つは“男と女”そしてもう一つ世にいう“成功者とそうでない人”、でもそこに大した違いはないヨ、との人間に対する優しい眼差しを感じます。
 例えば、ミュージカルの『ラ・カージュ・オ・フォール』や『ビクター・ビクトリア』はそれを前面に出して成功した作品です。『ラ・カージュ~』は映画作品としては『バート・ケージ』のタイトルで発表されています。
 作品はコメディータッチですが、その主題は表面的な姿かたちで人間を判断することにどれほどの意味があるのか、との深遠なテーマが底には横たわっていると感じます。
 コメディーの裏にはその何倍もの悲しみが込められている、との誰かの言葉を聞いた記憶がありますが、人が生きていくことは“悲しみ笑い”をどれ位くりかえすのか。コメディー映画を観る度に自問自答してしまいます。
 『ミスター・ビーン』のローワン・アトキンソンも“ビーン”なる人物に関して、傍目から見れば本当にこんな人がいるのか?と思うかもしれないけれど、でもよくよく考えてみれば、彼はものすごくまじめで誠実な人だからとりとめもないことをやるのかもしれない、と語っていたことを思い出します。
 

ブログ筆者よしだ:

トラ猫アダムさん

コメントありがとうございます。

コメディは大好きなジャンルの一つですが、考えてみればそうですね、主人公が悲しき事態にどんどん遭遇するところが笑えます。

よく、「今となっては笑い話だけど」ということで、
体験談を語ることがありますが、
当人にとってみれば、その時は大変な事態で
一生懸命乗り越えようとしたはずです。
誠実に取り組んだからこそ、後になれば笑えてしまうんでしょうね。

悲しき事態は、本当にしょっちゅう我々を(私を)襲ってきますが、
それにめげず、笑いとばせるだけの強さを持ち得たいものだと、
コメディ映画を見ると思います。

「バート・ケージ」はまだ未見ですので、
ぜひ、鑑賞させていただきます!
ありがとうございました!

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