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1960年代 アーカイブ

2007年06月13日

「用心棒」 ~映画は最高!~      
黒澤明監督

用心棒」(1961

監督: 黒澤明
製作: 田中友幸/菊島隆三
脚本: 黒澤明/菊島隆三
撮影: 宮川一夫
美術: 村木与四郎
音楽: 佐藤勝
照明: 石井長四郎

出演:
三船敏郎
仲代達矢
東野英治郎
司葉子
山田五十鈴
加東大介
河津清三郎
志村喬


【おはなし】

とある宿場町では対立するやくざの抗争が続いている。そこへ一人の素浪人がやって来て、全てを片づけて去って行く。

【コメントー映画は最高!ー】

当時、僕は中学生だった。
1990年かそこらだったと思う。
一人で映画館にも出かけるようになり、どうやら映画には「監督」という役職があるらしいと、ようやく気がついた頃。

「おい、お前用心棒は観たんか?」
父親が不意に質問してきた。
僕は父親に勧められるがままに、ビデオを借りてきたのだった。

中学生の僕にとって映画とはハリウッド映画のことだった。
用心棒」は日本映画であり、白黒映画である。ましてや時代劇でもある。
どれを取っても未知の世界であり、また興味もなかった。

映画の冒頭、一人の男(三船)の背中が現れた。大きな背中だった。
男は首筋をぽりぽり掻いてから、歩き出した。やれやれ、といった風情だ。
今まで聞いたことのないような音楽が、ゴンチャタカッポ♪ゴンチャタカッポ♪と耳に響いてくる。
な、なんだこれは!
未だかつて味わったことのない愉快な映画体験が僕の気分を弾ませる。
歩く男とゴンチャタカッポ♪これだけで心躍るとはどういうことだ。

男はやがて分かれ道に辿り着く。おもむろに一本の枝を拾い、天に目がけて放り投げた。
枝が落下し指し示した道へと彼はゆっくり歩き出す。
彼はきっと無頼だ!世間とは一線を画した男なんだ!わーい!

映画が始まって数分しか経っていないはずだが、僕は夢中になっていた。
息が詰まりそうだった。

男は宿場町にやってくる。人気がない。
不穏な雰囲気の中、一匹の犬が通りの向こうから駆けて来た。
犬はどうやら人間の手首をくわえている。

僕は映画冒頭に興奮し過ぎた自分を少々恥じていた。
古い日本の映画に何をびびっているのだ。きっと粗があるはずだ。
全神経を集中し、画面に近づいてくる手首を凝視した。
作り物然とした手首を期待していた僕は。
…度肝を抜かれた。
残念ながら本物の手首にしか見えなかった。

エンドマークが出るまで、僕はこの映画に完全に身を委ねた。
我を忘れた。
徹頭徹尾、おもしろかった。娯楽の真髄を見た思いがした。
アイデアや工夫に満ちていた。旺盛なサービス精神に圧倒された。
今まで見てきたものや読んできたものの好きな要素の、全てがここにはあった。
これが見たかった。

帰宅した父親に僕は質問した
「この三十郎って人物は誰が考えたん?」
「ええ?オリジナルやろう」
「誰の?」
「黒澤の」

映画監督、黒澤明。認識しました。
世界に名だたる巨匠であると、後に知った。
当時黒澤はまだご存命だった。
彼はもう堕ちた虚像として扱われていた。
背の高いサングラスの老人。
僕はこれ以後しばらくは、黒澤を基準に映画を見ていた気がする。
黒澤より上か下かで判断していた。
世界のクロサワだかなんだか知らないが、僕の黒澤だった。

この映画の三船敏郎の殺陣は凄まじい。
人として生まれて来たからには、この映画の三船の殺陣を見ておいて損はないと思う。
ああ、「用心棒」をまだ観たことのない人達がうらやましい。
僕はもう二度とあの感動を得ることはできないのだから。

父親は得意満面だった。
「おもしろかったやろ?」
「うん。最高やった!」
僕は映画の最高を確かに実感した。


2007年07月12日

「娘・妻・母」 ~うちはうち、よそはよそ~
成瀬巳喜男監督

娘・妻・母」(1960年

監督: 成瀬巳喜男
製作: 藤本真澄
脚本: 井手俊郎/松山善三
撮影: 安本淳
美術: 中古智
編集: 大井英史
音楽: 斎藤一郎

出演:
三益愛子 / 坂西あき
原節子 / 長女・曽我早苗
森雅之 / 長男・勇一郎
高峰秀子 / 妻・和子
宝田明 / 次男・礼二
団令子 / 三女・坂西春子
草笛光子 / 次女・谷薫
小泉博 / その夫・谷英隆
淡路恵子 / 礼二の妻・美枝
仲代達矢 / 醸造技師・黒木信吾
杉村春子 / 英隆の母・加代
太刀川寛 / 春子の恋人・朝吹真
中北千枝子 / 早苗の友人・戸塚菊
北あけみ / ホステス
笠智衆 / 公園の老人
加代キミ子 / 美枝の友人・とよ
笹森礼子 / モデル
松岡高史 / 和子の息子・義郎
江幡秀子 / 坂西家の女中・たみ
加東大介 / 鉄本庄介(和子の叔父)
上原謙 / 五条宗慶(早苗の見合の相手)
杉浦千恵 / 女事務員


【おはなし】

母親、長男、次男、長女、次女、三女、また、その配偶者らが入り乱れてのお家騒動。

【コメントーうちはうち、よそはよそー】

友人の女性に聞いた話。
彼女の母親は、とある月刊冊子の切り抜きをやっていたという。
生活を主題としたその冊子には、家計簿相談コーナーなるものが毎号掲載されていた。
投稿者は自分の家庭の家族構成と、ひと月分の家計簿を提出し「なぜうまく貯金できないんでしょう?」といった悩みを打ち明ける。
それに答えて先生が、旦那の交際費を抑えろだの、食費を減らせだの言う。
母親がこの記事を切り抜いて束で保管していたのを、帰省した際に発見したのだそうだ。

この話を僕は笑いながら聞いたが、お母様の気持ちも分からないでもなかった。

他人の家庭のことは面白い。
よそのうちの旦那の仕事と地位、妻のパートと園芸、子供らの進学状況、就職状況、じいさんの病状、ばあさんの社交ダンス。
誰しもそういったことは、多少なりとも覗き見したくなるものだ。

渡る世間は鬼ばかりという長寿ドラマがあるが、この番組について話している人の会話は、まるで隣家のゴタゴタを噂しているかのように聞こえる。
「だれそれのところのなんとかさんが、また借金しちゃって!」
渡鬼の人気の秘訣は、多分その覗き見感覚にあるのだと思う。

こういった他人の「下世話」な事象に対して首を突っ込むことに、つい最近まで僕は嫌悪感を持っていた。
そんなもんほっとけ、というスタンスであった。05年、成瀬巳喜男に出会うまでは。

洗練された下世話世界とでも言えばいいのだろうか。
成瀬監督は、社会生活を送る人々の小さな営みに照準を絞り込んで行く。
人々が生きている様を正確無比に描写する。
自分勝手、嫌味、強情、意地悪。
人のいやらしさが赤裸々に繰り広げられる。

まさか、自分にそのようなものを好む資質があったとは知らなかった。
二十代も終わりに近づき、僕も大人になったのだろう。
人間てぇもんは、いや俺っていう男は、なぜこんなにもミットモネエものなんだろう。などと嘆くことも、以前より増えている。
成瀬監督の映画を見ると、自分のことを振り返ることができる。
嫌な部分も、笑いながら、また身につまされながら見るのが本当に楽しいのだ。

この映画は、とある上流家庭での財産問題が柱となっている。
夫を亡くし、出戻りで帰ってきた長女の原節子を中心に、夫の母親と別居したい次女、父親の残した家を担保に借金をした長男、写真屋を営み不倫をする色男の二男、言いたいことをズケズケと言う三女。
それぞれが問題を持ち込み、絡み合い、家族はいよいよ危機を迎え決断を迫られる。
揺らぐ家族の絆。

全ての登場人物が生き生きとしている。
出演者が豪華だから素晴らしいのではなく、俳優たちが素晴らしい演技をするから豪華に感じられるのだと思う。

台詞がまた一々おもしろい。
夜半、布団を敷いた部屋で長男の嫁(高峰秀子)は夫(森雅之)に名案を述べる。
「お義母さんのこと、他人と思うようにすればいいのよ」
これを真剣に言うからグッと来る。

母親はリア王のように子供たちに裏切られ、チェーホフ桜の園のように彼らは土地の上で右往左往する。
がっちりと足腰の強い脚本が物語を支え、その先家族がどうなるのか目が離せない。

成瀬巳喜男の大きさは計り知れない。
これだけたくさんのエゴを一つの映画の中に収納し、どれ一つとして混乱させることなくクッキリと伝える。
それぞれの立場を尊重し、正面に向き合っている監督の勇ましき姿を僕は想像する。
人間の本質に踏み込む度胸において、この人以上の監督がいるだろうか。
普通は尻込みするか、照れてしまうかするものだと思う。

ちなみに友人の母親は、見つかった家計簿相談集を慌てて捨てちゃったのだそうだ。
もったいない。
でも、その気持ちも分かる。


2007年07月26日

「太陽がいっぱい」~100年経ってもアラン・ドロン~
ルネ・クレマン監督

太陽がいっぱい」(1960年

監督: ルネ・クレマン
製作: ロベール・アキム
原作: パトリシア・ハイスミス
脚本: ポール・ジェゴフ/ルネ・クレマン
撮影: アンリ・ドカエ
音楽: ニーノ・ロータ

出演:
アラン・ドロン
マリー・ラフォレ
モーリス・ロネ
エルヴィーレ・ポペスコ
ロミー・シュナイダー


【おはなし】

トムは大金持ちのフィリップを殺害した。大金を銀行から下ろし、フィリップの恋人まで手に入れた。完全犯罪は成立するだろうか。


【コメントー100年経ってもアラン・ドロンー】

映画の中の時間は永遠に止まったままだ。
若き美貌のアラン・ドロンは「太陽がいっぱい」の中にいる。
うちの母は、団塊の世代47年49年生まれ)より少し上、この映画が公開された当時思春期の真っ只中だった。
僕が映画に興味を持ち始めた中学時代(88年91年)、しきりに「太陽がいっぱい」を薦めるのだった。

ビデオレンタルで鑑賞したが、なるほど、アラン・ドロンは絶世の男前だった。
どの角度から見ても整った顔立ちが揺るぎない存在感を示す。
甘い感じではない。どちらかというと怖い格好よさだ。
冷酷、孤独、寂寥感。

こういったナイーブさを一面に持ったハンサムガイは、今も当時も人気があるが、彼ほど完璧にそれを演じることができた俳優が、その後いるだろうか。
多くの女性が、この映画のアラン・ドロンに恋をしたのは充分に頷ける。
母は、この映画を見る度に、まだ若かった頃の自分を取り戻すに違いない。
アラン・ドロンの偉業は、47年の時を経てなお色褪せない。
現在、十代二十代の女性こそ、今のうちにこの映画を見ておくべきだと思う。
この先50年、ときめきを持てる。

アラン・ドロンはしかし、何も「太陽がいっぱい」だけに出演したわけではない。
その後も、名作に駄作に活躍している。
90年代の前半だったか、「news23」で、来日したアラン・ドロンにインタビューをした筑紫哲也が言っていた。
「日本では、いつ来てもどこに行っても太陽がいっぱいのことを聞かれるのだそうで、本人は他の作品にもたくさん出てるのにと言ってました」
これがアラン・ドロンの本音なのだろうが、この映画がよく出来過ぎていた功罪として彼にはご容赦をいただきたい。
アラン・ドロンが出ているだけではない。
映画史に残るサスペンスの傑作だと思う。

舞台はナポリ
貧乏トム(アラン・ドロン)は金持ちフィリップと、その恋人マルジュと三人でヨットに乗っている。
フィリップの父親から依頼され、ドラ息子を連れ戻すためにトムはナポリまでやって来ていたのだ。
目の前で繰り広げられる放蕩三昧、マルジュとのアツアツ振りに、トムはフィリップに対し静かな嫉妬を抱きはじめる。
露骨な台詞はなくとも、トムがマルジュに抱く恋慕はすぐにわかる。
青い空、青い海、照りつける太陽、他に誰もいない大海のど真ん中で、トムは黙々とフィリップの命令を受け入れていた。
夏の海はどこまでも静かで、強烈な日差しが時間の流れを遅く感じさせる。
大金持ちの気ままな遊びは、貧乏トムにとってはあまりにも酷であったに違いない。

映画前半の倦怠感漂うこのヨットでのシーンが僕は好きだ。
ジリジリとトムのフラストレーションが溜まっていく。
のんびりとした外界の様子とは裏腹に、トムの殺意は心のうちで徐々に発展していく。
素晴らしい緊張感である。
そして、ぷつっと糸が切れたかのように、トムは行動に出る。
二人でトランプに興じていた最中、あっと言う間もなくトムはナイフでフィリップの胸を刺していた。
見ていて思わず身体がこわばった。

映画はここから、トムの完全犯罪への挑戦を追う。
フィリップの筆跡を練習する場面は印象的だ。
ただお金のためだけに犯罪を犯したのではない。
トムはフィリップに嫉妬し、彼に成り済ますことで心の隙間を埋めようとしたのだろう。
筆跡を真似し、フィリップの恋人マルジュを振り向かせることで、自分を満たそうとした。
彼の一世一代の大仕事は、どことなくもの悲しいのだ。

そう、そして、この間もずっとアラン・ドロンはハンサムであることを忘れてはいけない。
海でも陸でも、ずっとハンサム。
表情を崩さないトムが、映画のラストでようやく微笑む。
大金を手にし、全てのゴタゴタを片づけ、恋人も手に入れ、砂浜に腰掛けてナポリの海を満喫している。
思わず胸が締め付けられる見事な終幕は、ただの犯罪映画にはない情感に満ちたものだった。

サスペンス映画の緊張と、青春映画の情動とが巧みに融合した作品。
「太陽がいっぱい」とアラン・ドロンの幸運の出会いを堪能した。

団塊の世代近辺の男性諸氏は損をしている。
アラン・ドロンと比べられてはかなわない。
いや、実際は比較するなんて、女性たちは考えにも及ばなかったかもしれない。
父に「お母さんに薦められて太陽がいっぱい見たよ」と報告したが、この顔、アラン・ドロンとは似ても似つかない。
パンツ一丁でうろついている姿は、せいぜい「太陽がしっぱい」といったところだった。


2007年08月10日

「しとやかな獣」~あやこがゆく~   
川島雄三監督

しとやかな獣」(1962年

監督: 川島雄三
企画: 米田治/三熊将暉
原作: 新藤兼人
脚本: 新藤兼人
撮影: 宗川信夫
美術: 柴田篤二
編集: 中野達治
音楽: 池野成
助監督: 湯浅憲明

出演:
若尾文子
川畑愛光
伊藤雄之助
山岡久乃
浜田ゆう子
山茶花究
小沢昭一
高松英郎
船越英二
ミヤコ蝶々

【おはなし】

とある団地の一室に住む家族。
両親、娘、息子の全員がそれぞれにしたたかな詐欺行為に勤しんでいる。


【コメントーあやこがゆくー】

先日、新宿に行くと駅前に大変な人だかりができていた。
普段以上の人混みに驚いていると、どうやら選挙活動が行われている。
翌日が投票日で、立候補者が最後の「お願い」に参上していたわけだ。
選挙カーが何台もあちらこちらに見られ、仮設ステージにマイクスタンドが置かれている。
ただでさえ混雑する新宿の駅前なのに、ビラ配り、ウチワ配り、拡声器での演説で、もう辟易である。
しかし、その賑わいを抜けるまでの間に僕は立候補者のチラシを一枚受け取っていた。
チラシには若尾文子(わかおあやこ)の顔写真が大きく載っていた。

参議院選挙で若尾文子共生新党から立候補していた。
夫の黒川紀章と共に選挙活動に東奔西走していたが、この若尾文子が錚々たる名映画監督たちと仕事をしてきた大女優であることを、新宿の若者たちが知るはずもない。
思わず手にしたチラシには、既に70歳を超えた老境の若尾文子の顔写真。
凄絶なほどの美人であった面影はしっかりと残っていた。

「しとやかな獣」は名匠川島雄三監督、未だ現役の新藤兼人脚本による傑作喜劇である。
とある四人家族が悪事に精を出している。
退役軍人の父親は、働かずして国からお金を貰うことに必死。
娘は作家と不倫をしてお金を絞り取り、息子は会社の金を横領している。
映画の舞台は家族が住む団地の一室の二部屋のみで、悪人たちの息詰まる会話劇が展開する。

事態は正常ではない。
狂気のホームドラマ。
世の父親が娘を叱るときに、もっと愛人らしく金をしっかりふんだくって来いとは、まさか言わないだろう。
そもそもこの文化住宅は娘の愛人である流行作家が彼女に買い与えたものだ。
いつのまにやら家族で住まわっている。
この映画の登場人物たちの道徳観念は、一般的な感覚とは全く逆さまだ。
逆さまなのだが、身勝手で強欲な彼らを見ていると、まるでこちらの腹の底がばれちゃうような、むずむずとした心地にさせられる。
笑ってしまうが、笑ってばかりもいられない。

登場人物たちの駆け引きが、螺旋構造のように絡みつつ、登り詰めるところまで登り詰める。
シナリオ、演出、演技、美術、音楽、全ての要素が噛み合って、その攻防を盛り上げる。
結末は、まったくもって…、まったくもってである。

高度経済成長の只中にあった当時の日本と日本人を真正面から風刺し、人間の醜い部分をユーモアに昇華させつつ描いてあるシナリオは、絶妙という一語に尽きる。
脚本の新藤兼人は映画監督でもあるのだが、シナリオにも定評のある人で、特に「しとやかな獣」は代表作と言って差し支えないのではなかろうか。
舞台劇にもなり得る作品だと思っていたら、近々舞台版をやるらしい。→舞台版紹介
まず間違いのないシナリオなので、どう転んでも見応えのある演劇になるだろう。

また、ともすれば退屈になりかねない密室劇を、川島雄三監督の神業的演出が面白さに拍車をかけている。
一度たりとも同じアングル、同じ画面サイズを撮らない。
ここまでやるか、というほどにバラエティに富んだカメラワークである。
緻密且つ大胆且つスタイリッシュ。
川島雄三監督は、よく「天才」と冠される人なのだが、常々僕は軽々しく天才という言葉が使われることについて疑問を感じていた。
エジソンもラーメン屋の店長も一緒くたに天才扱いである。
そして、この映画を見たときに、「あ、天才」と気づけば呟いていた。
多分、映画において天才とは、この映画が撮れてしまうような人のことを指すのだと思う。

俳優がまた素晴らしい。
父親役の伊藤雄之助に釘付け。
低い声、早口、ギョロ目、飛び出た下唇。
一家の主とは思えぬ不謹慎な発言の連発に、思わずのけぞってしまう。
僕は、地獄の底から這い上がって来たような顔を持つこの俳優の大ファンである。
他の映画ではぽっかり優しい男を演じたりもするから油断できない。
まさしく、怪優と呼ぶに相応しい。

母親役の山岡久乃は、おそろしい。
表面上は、人情ドラマの頼れるおっ母さんといった体を発現していながら、腹には暗黒世界のドロドロマグマが充満しているのが伝わってくる。
飄々とした中に、尋常ではない腹黒さだ。
これまた怪演。

そこに、スコーンと抜けるような美人が一人ちょこなんと座っている。
若尾文子の美しさがこの映画の不気味さをより強調する。

その後、選挙チラシの顔となって僕の手にまで届くことになる若尾文子。
僕は、振り向いて見たが共生新党の仮設ステージには、まだ演説者は到着していなかった。
立ち止まって待つことはせず、僕は足早にその場を歩き去った。
何しろ、「しとやかな獣」の若尾文子には、途方もない「内心」があったのだ。
下手に触れるのはよしておこう。


2007年09月14日

「天国と地獄」~閻魔様どうかお許し下さい~
黒澤明監督

天国と地獄」(1963年

監督: 黒澤明
製作: 田中友幸/菊島隆三
原作: エド・マクベインキングの身代金
脚本: 小国英雄/菊島隆三/久板栄二郎/黒澤明
撮影: 中井朝一/斎藤孝雄
美術: 村木与四郎
音楽: 佐藤勝
監督助手: 森谷司郎/松江陽一/出目昌伸/大森健次郎
記録: 野上照代
照明: 森弘充

出演:
三船敏郎 / 権藤金吾
香川京子 / 権藤の妻伶子
江木俊夫 / 権藤の息子純
佐田豊 / 青木(運転手)
仲代達矢 / 戸倉警部
石山健二郎 / 田口部長刑事(ボースン)
木村功 / 荒井刑事
加藤武 / 中尾刑事
三橋達也 / 権藤の秘書河西
伊藤雄之助 / 専務馬場
志村喬 / 捜査本部長
藤田進 / 捜査一課長
三井弘次 / 新聞記者A
千秋実 / 新聞記者B
東野英治郎 / 年配の工員
藤原釜足 / 病院の火夫
沢村いき雄 / 横浜駅の乗務員
山崎努 / 竹内


【おはなし】

権藤(三船敏郎)は、会社を乗っ取る気でいた。自宅を担保に借金し、他の重役を退けるつもりだった。
そんな折、息子が誘拐に遭ってしまう。
いや、犯人は間違えた。権藤の運転手の息子をさらってしまったのだ。
ところが、おかまいなしに身代金の要求をしてくる犯人。
電話の向こうで犯人は笑っている「いや、あんたなら払うね、権藤さん」
権藤は他人の子のために身代金三千万円を払うことになるのだろうか。


【コメントー閻魔様どうかお許しくださいー】

中学のとき(88年91年)、目前の奈良京都修学旅行を控え、僕たちが気になっていたのは鹿でも金閣寺でもなく、誰と一緒の班になるかであった。
現地で解散、自由行動となった際、基本的には班行動となる。
もしか不良グループと同じ班になってしまったら、それは違った意味での思い出深い修学旅行となってしまうだろう。
前もって僕は、仲の良い友人たちと集まって同じ班になろうと結束を誓い合っていた。

担任の先生は野暮なことはしなかった。
ジャンケンやクジではなく、話し合いで班決めせよと、生徒たちに丸投げしてみせた。
クラスの男子は21人。1班7人という計算になる。
おや?と僕は思った。
数えてみると、僕たちの班に8人が集まっている。
クラスの不良は6人、案の定集まっているが、一人足りないのは一目瞭然。
もう一つの班は7人できっちりスクラムを組んでいる。
しまった!と思ったときは、もう遅かった。
つまり、我々の中の誰かが、不良班に移動しなくてはならない状況だったのだ。

僕たちは顔を見合わせた。
お前が行けとも、俺が行くとも言えない。
引きつった表情で、誰も何も言わない。
「どうする?どうする?」と頭の中で混乱の叫びがこだまする。
1分かそこらの沈黙だったと思うが、僕には永劫の時に感じられた。

ついに、意を決した一人が「じゃ、俺あっち入るわ」と笑顔で言い、背中を向けて去った。
不良たちに飲み込まれた彼は、早速使い走りの地位を任命されていた。
こちらの班に残った我々は、彼に申し訳ない気分もそこそこに、どっと安堵のため息を吐いた。
心から「よかったー」と思った。
中学生くらいだとまったく現金なもので、人身御供となった彼のことなどすぐに忘れてしまう。
このメンバーで修学旅行を楽しめるかと思うと、さっきまでの青い顔はどこかへ吹き飛び、すっかり有頂天となってしまっていた。
ああ…、天国か、地獄かの、危ない瀬戸際だった。

映画「天国と地獄」の序盤の見せ場は、権藤(三船敏郎)が三千万円を他人の息子のために支払うかどうかの葛藤にある。
この三千万円は、会社の実権を握るために拵えた、今最も必要なお金であった。
だが、犯人は冷徹にも権藤を脅してくる。
自分の運転手の息子のために、彼はこの命がけで集めた大金を放り投げることができるのだろうか。

エド・マクベインの原作のこの部分に黒澤監督は着目したのだそうだ。
他人の子供なのに身代金を要求してしまう犯人、という設定。
他の部分は原作から離れ、創作されたものらしい。
姿の見えない犯人との攻防が前半に描かれ、犯人を追い詰める警察の捜索が後半で描かれる。
真冬に真夏のシーンを撮影したとか、新幹線の場面で7台のカメラを同時に回したとか、撮影に邪魔だった二階建ての民家にお願いして二階部分を取り払ってもらったとか、この映画を模した実際の誘拐事件が起こったとか、そういったクロサワ逸話を多く残す映画だが、そんなことよりも作品自体の無類の面白さに、これを見た当時中学生だった僕は夢中になった。

黒澤作品には「用心棒61年)」から入門した僕だったが(※)、時代劇のみならず現代劇でもこれだけの娯楽作があったのだと、うれしくて仕方がなかった。

脚本に黒澤を含む四人の名前がクレジットされているが、黒澤監督は大抵の作品において複数人で脚本を執筆している。
優れたシナリオライターを集め、いいシナリオを書くことが、いい作品への近道であると彼は考えていたに違いない。
ここには、映画作りの頂点に踏ん反り返る暴君黒澤のイメージはない。
広く意見を求め、他人の力を信用し、客観的で冷静な視点を持つ知的な彼の姿が想像できる。
シンプルで力強い設定と構成、警察の捜査の緻密さ、犯人のドス黒い嫉妬心、権藤の苦悩、アクションの迫力、ビジュアルと音響を活かした映画ならではのアイデアの数々。
一本の映画の中に、これでもかというほどに工夫が詰まっている。
黒澤一人では、この脚本は書けなかっただろう。四人がこの脚本を書いたのだ。

権藤が苦悶した自己犠牲のあり方は僕の心を打ったはずだったのに、修学旅行の班決めでは、他の皆のために自分が犠牲になるなどということは、毛の先ほども考えられなかった。
断じて、つっぱり不良班には入りたくなかった。
ここという時に人間性というのは現れる。
僕はそこで得られる信用などをかなぐり捨ててでも、仲良し班に留まりたかった。
映画「天国と地獄」での天国、地獄は、貧富の差や、人生の起伏、考え方、生き方についてを意味していたと思う。
僕は安直に仲良し班を天国だと思い込んでいたが、果たしてそれは正しかったのだろうか…。

あれから時は流れた。
当時のことをゆっくりと思い起こし、その決断に間違いはなかったか落ち着いて考えてみようではないか。
うん、仲良し班に残留したことに、一片の悔いなし!

こんな僕を、どうぞ地獄に落として下さい。


※映画「用心棒」の記事は、このブログで一番最初に書きました。→こちら(07年6月13日の記事です)


2008年05月03日

「椿三十郎」~間の悪い男たち~
黒澤明監督

椿三十郎」(1962年

監督: 黒澤明
製作: 田中友幸 / 菊島隆三
原作: 山本周五郎日々平安
脚本: 菊島隆三 / 小国英雄 / 黒澤明
撮影: 小泉福造 / 斎藤孝雄
美術: 村木与四郎
音楽: 佐藤勝

出演:
三船敏郎 椿三十郎
仲代達矢 室戸半兵衛
小林桂樹 見張りの侍(木村)
加山雄三 井坂伊織
団令子 千鳥
志村喬 黒藤(次席家老)
藤原釜足 竹林(国許用人)
入江たか子 睦田夫人
清水将夫 菊井(大目付)
伊藤雄之助 睦田(城代家老)
久保明 守島隼人
太刀川寛 河原晋
土屋嘉男 広瀬俊平
田中邦衛 保川邦衛
江原達怡 関口信吾
平田昭彦 寺田文治


【おはなし】
九人の若侍が上役の不正を暴こうと立ち上がる。ひょんなことから浪人三十郎がその活動に加担することになった。
とにかく活躍します、三船敏郎


【コメントー間の悪い男たちー】

「間が悪い」ことは罪であろうか。
人は誰しも人生で一度は「間の悪い」ことをやらかし、赤面する。
またそのことが、人間関係に重大な影響を及ぼすケースすらある。
「間の良さ」は、もしかすると社会を渡っていくための最も有効な武器なのかもしれない。
だが僕は、「間の悪さ」をあえて悲劇とは読まず、喜劇として捉えたい。

小学6年のときの夏休み(87年)。
当時、クラスの男子連中でモデルガンが流行していた。
うちはおもちゃを買ってもらえない家庭で、しかもお小遣いが大変乏しかったため(月に500円だった)いわゆるちゃんとしたモデルガンというものを持っていなかった。
うちにあった唯一の銃は、兄と二人で兼用の、もらい物。
華奢な作りで、銀玉鉄砲のようなちゃちな代物だった。

各自手持ちのモデルガンにBB弾という小さな弾を装填し、サバイバルゲームに興じていた。
通常モデルガンと言えば、エアガンあるいはガスガンのことを指す。
金持ちと尊敬されていたある友人は、連射式(200発だったと思う)の自動小銃なんかを持っている。
こっちはリボルバー風の一発一発ハンマーを引いて、最大5発までしか撃てないおもちゃ。
シリンダー(弾をこめる蓮根みたいなあれ)もガタがきていて、飛距離などお話にならない。
ともかくも黒いL字型のものを手に握って、なんとか格好をつけなければサバイバルゲームに参加できないので、恥を忍んで「うちの銃」を持参していた。
自動小銃は、皆の憧れの的で順番に少しずつ触らせてもらったりしていた。

サバイバルゲームといっても、山奥で戦争ごっこをするわけではない。
適当なチームに分かれ、近所を走り回って撃ち合うだけのもの。
ゲームの始まりも終わりもよく分からない、実にアバウトな遊びであった。

と、その日、一通り撃ち合い(ほとんど追いかけっこ)を楽しみ、なんとなく皆が集まってそろそろお開きかという間際に、かの自動小銃が路肩に置いてあった。
人気の自動小銃は誰かがいつも使っていたので、その時まで僕は一度も触ることができていなかった。
駆け足で飛びつき、両手にズッシリと構え、そこにいた連中に声をかけた
「ちょっと、そこ空き缶立ててや、撃たしてこれ、そこ空き缶」
嬉しくて笑ってしまうほどの感激で、とにかく一度撃たせろと、はしゃぎながら皆に呼びかけるがそこいた8人全員が僕のことを無視する。
「ちょう、空き缶置いてっちゃ、そこ、ねえ」
いくら言っても彼らは視線を逸らすかのようにして無言を貫く。

「こら!」
と突然、僕の脳天に鼓膜が破れるかと思うほどの大声が降りかかってきた。
ビクンとなり振り返ると、年の頃四十といったおっさんが腕組みをして鬼のような形相で僕のことを真後ろから見下ろしている。

これは決していい按配ではない。
きっとこのおっさんは怒っているのだろう、と心の中で思う。
「小さい子供らに弾が当たったら危ないやろうが!」
友人達に目を戻すと、彼らはさっきから弾拾いをやっていたのだった。
僕が来る前に、既に怒鳴りつけられていた連中は、弾拾いをして反省の態度を示していたのだろう。
そこへ何も知らぬ僕が闖入し、自動小銃しか目に入ってないものだからおっさんには気付かず、このような全く「間の悪い」ことをやらかしてしまった次第である。
「・・・すいません」と小声で謝罪し、僕も慌てて弾拾いに参加した。
おっさんが家の中へ帰って行ったのを見届けてから、皆こらえていた笑いをドッと吹き出したのであった。

椿三十郎」は、実に「間の良い」映画である。
物語の運び方、演出、音楽、その他全ては、一点の無駄もなく構築されている。
奇跡かと思うほどの完璧な「間の良さ」で成り立ったこの映画は、見ている者が、いま自分が見ていること自体を忘却してしまうほどに、ひたすら面白い。

冒頭は夜の林、九人の若侍が木々に囲まれたとある社殿で話し合いをしている。
政府の汚職に敢然と立ち上がるべく息巻く若侍の前に、一人の素浪人(三船敏郎)が現れた。
たまたま社殿の奥で寝ていた彼は、若い侍達の密談を聞いてしまった。
全くの部外者であるこの浪人は、正義に満ちた若侍達の計画がいかにずさんであるかを指摘し始める。

若侍が信頼する大目付こそ不審だと浪人は見抜き、外の様子を窺う。
すると案の定、若侍達を一網打尽に摘んでしまおうと、汚職の黒幕大目付は大勢の侍で社殿を取り囲んでいる。
慌てふためく若侍は思わず抜刀する。
しかし浪人は落ち着いた様子で、彼らに刀をしまうよう言いつける。

大目付菊井の手勢が正に斬り込もうとした刹那、中から一人の素浪人が欠伸をしながら登場する。
社殿からは若侍が忽然と姿を消している。慌てて中を探す大目付の配下たち。
他人のねぐらに土足で上がる奴があるか!と浪人は侍たちを瞬く間に数人殴り倒してしまう。
軍勢を指揮する室戸半兵衛(仲代達也)は、浪人の強さに感心し、さっさと退却を命じる。
騒ぎが去った後、社殿の奥の床下に隠れていた九人の若侍は、床板から顔を覗かせて、なんとも「間の悪い」表情をしている。

三船浪人が、この映画において絶対的に「間の良い」人物として描かれるのに対し、九人の若侍は徹底的に「間の悪い」者として扱われる。
「間の悪い」お城勤めの若侍が、どこの誰かも知れぬ浪人から「間の良さ」を学んで行く映画と言っても過言ではない。
九人の中には加山雄三田中邦衛の顔もある。
九人のリーダー格である加山雄三が、どうかすると長嶋一茂に見えてしまう瞬間があり、そのことからもこの侍達がいかに「間の悪い」連中であるかをご理解いただけると思う。

拉致された奥方と姫様を三船浪人が救い出した辺りから、この映画は柔らかいユーモアの色合いを濃くして行く。
前作「用心棒」(※)のヒットを受けて制作された三十郎映画「椿三十郎」は、またしても痛快無比の娯楽時代劇。
三十郎を演じる三船敏郎の魅力大爆発を満喫できる。
続編に傑作なしという世の常を、見事に一蹴してみせたアクション喜劇である。

この映画に「間の良い」人物は三十郎の他に二人登場する。
一人は映画の終盤にワンシーンだけ顔を出す城代家老
今一人は仲代達也演じる室戸半兵衛。
三人はそれぞれの生き方や間合いを持ち、その立場を貫くが故に、手を組むことができない。
互いに互いを認め合いながらも、とうとう決別する他ないのが、なんとも粋である。

映画のラストは、三十郎と室戸の対決に至るのだが、この場面を言葉で説明することはできない。
なぜなら、「椿三十郎」のシナリオに、この闘いはとても筆では書けない。と黒澤明自身がそう書いているのだから。
長い恐ろしい間があって、勝負はギラっと刀が一ぺん光っただけできまる、としか書かれていない。
あとは撮影現場で考えようというスタンスで臨んだらしい。
そして、この対決は日本映画史に燦然と輝く、究極の「勝負」となったのである。

この映画をビデオレンタルした中学生の僕は、両親が共働きなのをいいことに、居間を占領して鑑賞していた。
当時僕にとって黒澤明はヒーローであり、三船敏郎は現在進行形の大スターであった。
トイレを済ませ、軽く喉の渇きを癒し、部屋の灯りを消し、ヘッドホンをかけ、テーブルに腰掛けて、視界にピッタリと画面を収め、この映画の一瞬とて見逃すまいと、勉学にはまるで発揮しない集中力を全身全霊「椿三十郎」に傾けていた。

緩急自在のストーリーテリング。
殺陣あり、知能戦あり、笑いあり。
ただ心地好い映画のリズムに身を委ね、いよいよ僕は、ラストシーンへと辿り着いていた。
至近距離で対峙する三十郎と室戸。
懐手した三十郎が両手を袖からスッと出してから、実に23秒(中学生の僕はその後何度も見直し自分の中でカウントしました)、二人が微動だにしない静かな長い間があり、ハッとする暇もなく決着がつく。

23秒の静止状態に、僕までもが一緒になって静止していた。
息をこらし、緊張は頂点に達していたとき、居間の襖を無造作に開ける音がした。
父「おお、おったんか、電気消してぇ。何見よるんか?」
ああ、なんと「間の悪い」父であることよ。
よりによって今、このタイミングを見計らって帰宅することはないのに!
猛然と振り返り、「ごめん、今映画見よる!」と怒鳴った僕はすぐに画面に視線を戻した。
かろうじて勝負の瞬間は目撃できたものの、しかし、きょとんとした父の顔を背後に感じながら観るには、この場面はあまりにも素晴らし過ぎた。

「間」は肝心である。
「間の良さ」は社会にとって有益なものであると、誰しも信じて疑わない。
しかし「間の悪さ」は、きっと笑えるのであります。
椿三十郎では、「間の悪さ」が必ずしも排斥すべきものではないことを、喜劇調で丁寧に語ってある。
黒澤自身、命がけで「間の良さ」を追求した映画人生だったからこその、ある到達点だったのかもしれない。

※前作「用心棒」について書いた記事です。当時は三十郎のモノマネばかりしてました→こちら(07年6月13日の記事です)


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