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「ヴィレッジ」~泣ぐ子は見た~
M・ナイト・シャマラン監督

ヴィレッジ」(2004年

監督: M・ナイト・シャマラン
製作: サム・マーサー/スコット・ルーディン/M・ナイト・シャマラン
脚本: M・ナイト・シャマラン
撮影: ロジャー・ディーキンス
音楽: ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:
ブライス・ダラス・ハワード / アイヴィー・ウォーカー
ホアキン・フェニックス / ルシアス・ハント
エイドリアン・ブロディ / ノア・パーシー
ウィリアム・ハート / エドワード・ウォーカー
シガーニー・ウィーヴァー / アリス・ハント
ブレンダン・グリーソン / オーガスト・ニコルソン
チェリー・ジョーンズ / クラック夫人
セリア・ウェストン / ヴィヴィアン・パーシー
ジョン・クリストファー・ジョーンズ / ロバート・パーシー
フランク・コリソン / ヴィクター
ジェイン・アトキンソン / タビサ・ウォーカー
ジュディ・グリア / キティ・ウォーカー
マイケル・ピット / フィントン・コイン
フラン・クランツ / クリストフ・クレイン
ジェシー・アイゼンバーグ / ジェイミソン
チャーリー・ホフハイマー
スコット・ソワーズ
M・ナイト・シャマラン


【おはなし】

1897年、ペンシルバニア州。
森の中。その小さな村は、外界との交流を一切絶って生活していた。
青年ルシアス(ホアキン・フェニックス)がケガを負い、瀕死の重体となってしまう。
盲目の主人公アイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)は、彼への愛を胸に森の外へと助けを求めに行く。


【コメントー泣ぐ子は見たー】

小学生のときだったか、秋田県男鹿のなまはげをテレビニュースで初めて目撃したときは、心底驚いた。
手には出刃包丁、大きな鬼のお面、藁を身に纏った男達が民家に騒々しく上がりこんでくる。
家の者が泣き叫ぶ幼児を差し出すようにして、なまはげはその子に遠慮なく怒号を浴びせている。
主人が差し出した一升瓶をラッパ飲みし、やがてなまはげは帰って行った。

これが神事だとは、にわかには信じ難いものがあった。
あまりの過激さに、胸の奥がブブブと震える思いがした。
怖いものが具現化し目の前に登場している迫真性が、子供の絶叫から伺える。
得体の知れない恐怖と、幾分のおかしさを伴ったこの伝統文化。
なまはげへの畏敬の念と、愛着が僕の心に刻み込まれた。
なまはげ、どうぞうちには来ませんように!

こういった祝祭で面白く感じるのは、地元の人間がなまはげとして演技をしている点である。
例えば、普段材木を運んでいる気のいいあんちゃんが、この神事の間だけ神となって振舞うのだろう。
衣装を付け、声色を変え、動きもそれらしく、神になりきる。
演じる者がいることで、その場は劇的空間へと変貌し、人々の目にはいつもの風景が違って映る。
この錯覚にこそ、お祭りの醍醐味があるのだと思う。

映画「ヴィレッジ」は、森の奥地に孤立した一つの村の出来事を描いている。
彼らは、外界との接触を一切絶っていた。
自分たちの共同体だけで生活し、まるでユートピアのような世界を形成していた。
森を出ることは厳しく禁じられており、村の掟として子供たちにも教育されていた。

なぜ森を出てはならないのか。
それは、怪物がいるからである。
誰も怪物の姿を見たことはないが、そう信じられているのである。
もしかすると迷信かもしれない。
勇気ある若者は、外への関心を持ちはじめる。

まるでおとぎ話のような設定だが、映画に流れる不穏な雰囲気は、この先きっと何かが起こってしまうであろう緊張感に満ちている。
夜の場面が素晴らしい。
森の向こうは深い闇に包まれており、どこからか鳥か獣の鳴き声が聞こえるような気がする。
かつて人間は自然を恐れ、神や化け物の存在を創造したのだろうが、正にこの映画で描かれる暗闇や夜の静けさは、恐怖の対象として怪物を生み出すのに充分な気配があった。

姿の見えない怪物であったが、その存在は徐々に現実味を帯びてくる。
そこは映画だ、なまはげよろしく、やがて怪物はとうとうそこに現れる。
村人たちは、走って家へ戻り、ドアに鍵をかけ、地下室に逃げ込み身を潜める。
掟を破ったことで、神の怒りに触れてしまった。
怪物が無事、森へ帰ってくれるよう皆で祈るばかりだ。

映画前半の、村の掟にまつわる怪物との心理戦は、最高に面白い。
村人は怪物を創造しただけではなかったのか。
ドアの隙間から見えた、現実にそこに歩いているあの赤い二足歩行の獣はなんだ?
恐怖映画の緊張感と、ファンタジー映画のケレン味が、えも言われぬ融合を見せている。
なまはげファンには堪らないものがある。
よくぞ、あの空気を映画で描いてくれたと思う。

怪物が本当にいることが分かってから、映画は主人公に苦難を与える。
主人公のアイヴィーは、盲目の若い女性。
彼女が想いを寄せている、勇敢な青年ルシアスが大けがを負ってしまった。
愛のために、彼女は自ら立候補し村の外へ助けを求めに行くのだ。
そのためには怪物のいる森を抜けなくてはならない。
ただでさえ目が見えないというのに、恐ろしい旅が始まってしまう。

M・ナイト・シャマラン監督は「シックス・センス」という映画で一世を風靡した過去がある。
シックスセンスでは、映画の結末に意外な展開が待っており、その衝撃に観客たちはびっくりした。
以後、観客は彼に「大ドンデン返し」ばかりを求める傾向があった。
どうしてどんでん返さないのかと、シャマラン監督はいつも非難を受けているように見えた。
きっと彼は、どんでん返しのために映画を撮る人ではなかったのだと、その後の作品を見て僕は感じていた。
彼は、映画そのもの、物語そのものを解体する視点を持っていただけだったのではなかろうか。
普段見ている映画が、いかに安直な約束事の上に成り立っているかを、実に生真面目な態度で壊して見せてくれているのだと思う。

そして「ヴィレッジ」においても、シャマラン監督の純粋な映画への想いは、とんでもない映画解体を行ってしまう。
しかも、若い男女の「愛」を恥ずかしげもなく真ん中にテーマとして据え置いた。
なまはげの原理は、映画前半だけにとどまらず、全編に渡って描かれる。
革新的で、且つ懐かしい映画の風情を孕んでいる。
どんぴしゃりで、僕の心を捉えた映画だった。

散々家の中で暴れたなまはげが、帰って行く際に柱の角で小指をぶつけた。
思わず「いてっ」と彼は、いつもの材木屋の声を洩らしてしまった。
それを、泣きながらも少年の僕は見逃さなかった。
なまはげが材木屋のあんちゃんだということが、垣間見れてうれしかった。
…言うなれば、そんな映画だと思う。


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●2007年08月13日 20:53に投稿された記事です。

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