【コメントー永遠に終わらないー】
ある時期から、映画館で眠ることに罪悪を感じなくなった。
お金と時間と人手をかけた極上の娯楽芸術を前に、クーと眠りに就くのは贅沢だとすら思えるようになった。
僕の場合、必ずしも映画がつまらなくて眠るわけではない。眠たいから眠るのである。
なので、たとえ映画がおもしろくても眠るときは眠ってしまう。
「永遠と一日」は、僕に映画館で眠ることを教えてくれた映画の一本である。
ギリシャの監督、テオ・アンゲロプロスは映画史に残る巨匠である。
70歳を過ぎた今も現役監督として健在である。
彼の映画は、一目見ただけで彼のものだと分かる。
そういう空気を持っている。
ところで。
映画には「長回し」という言葉がある。回す、とはカメラを回す、つまり撮影すること。
一つのカットを長く撮影することを「長回し」という。
カットとは、その画がはじまって、終わるまで。ひと続きの画のことを言う。
カットが一つ一つ連続して一本の映画となる。
アンゲロプロスは、その1カットがとても長いことで有名である。
長回しは、アンゲロプロスの代名詞と言っても過言ではない。
遠く豆粒ほどの大きさにしか見えない人物がテクテクこちらに歩いて来て、ようやく画面に迫ってきたところで「やあ」という台詞をはくだけ、などということを平気でやる。
豆粒がこちらに到着するまでに要する時間は5分か7分か分からないけれど、その間ずっと観客は待たされることになる。
普通の映画であれば、豆粒がこちらに向かっているのが確認できたところで、パッと次のカットに切りかわって、既に画面のそばにまで近づいているその人物が台詞を言うだろう。
編集で、間の時間は抜くことができるのだから。
しかし、アンゲロプロスはひと続きの時間を大事にする。
本当にそこに流れる時間を捉えようとする。
彼の映画に満ちる緊張感や、重厚な趣は、独特な時間経過の積み重ねによって生まれるのだろう。
豆粒大の人物がこちらに来るまで、観客はしっかりとその空気を堪能できるのだと解釈したい。
「永遠と一日」でも、相変わらず見事な長回し。
完璧な構図と画面構成。
一つのカットが一つのお芝居のように完成されていて、ここというタイミングで通行人が奥を歩いたりする。
老人の人生にまつわるテーマも、決してうるさくなく静かに語られ、僕の性に合っている。
一瞬たりとも無駄にしない映画美で迫ってくるこの作品で、公開当時(99年)僕は後半ほとんど眠ってしまった。
決してつまらなかったわけではない。むしろ興奮して見ていた。
だが、眠ってしまった。長回しの途中で。
目が覚めるとエンディング間近だった。
半分眠ってしまった僕であったが、この作品が傑作であることは分かった。
素晴らしい作品だったという充足感と、ひと眠りした爽快感で、僕は席を立った。
数ヶ月後。
「永遠と一日」が高田馬場の早稲田松竹で上映されるというので、もちろん僕は駆け付けた。
いい作品だということは分かっている。通して観て、自分を納得させたいだけだ。
おにぎりを2つほど買って、お茶を買って、ガムを準備して万全の態勢で臨んだ。
そして後半眠ってしまった。
たぶん長回しをしている最中に。
それ以来、この作品を観賞する機会は持っていない。
大事な映画体験をビデオなどでごまかしたくないのだ。
眠って見れなかったという体験を堂々とアンゲロプロスに報告したい。
ふざけるな!と叱りつけられるだろうか。
僕は、本当にこの映画の凄さを、ちゃんと受け取ったのだがなぁ・・・。