« 前の記事 | メインページ | 次の記事 »

「バタリアン」~ゾンビのごとく~     
ダン・オバノン監督

バタリアン」(1986年公開)

監督: ダン・オバノン
製作: トム・フォックス
原案: ジョン・ルッソ/ルディ・リッチ/ラッセル・ストライナー
脚本: ダン・オバノン
撮影: ジュールス・ブレンナー
音楽: マット・クリフォード

出演:
クルー・ギャラガー
ジェームズ・カレン
ドン・カルファ
トム・マシューズ
ビヴァリー・ランドルフ
ジョン・フィルビン
リネア・クイグリー
ジュエル・シェパード


【おはなし】

アメリカ、ロサンゼルスのとある研究所にある謎のタンク。
詰まっていたガスが噴き出すと、死んでしまった生物が蘇ってしまった。
このゾンビは人間を食べるだけでなく賢くもあり、手がつけられない。


【コメントーゾンビのごとくー】

80年代の終わりから90年代にかけて、「オバタリアン」という4コマ漫画を堀田かつひこが描いていた。
この漫画と直接関係があるのかどうか分からないが、一部の図々しい行動をとるおばさんのことを、「オバタリアン」と呼ぶマスメディアが登場した。
「オバタリアン」は89年流行語大賞に選出された。

およそ10年の時を経て、97年頃。
今度は、路上などにお尻を付けて座ってしまう一部の若い人々のことを「ジベタリアン」と呼称するメディアが出てきた。
菜食主義者、ベジタリアンをもじった言葉とも取れなくもないが、社会的なマナーに欠ける人物を指すことから言っても、オバタリアンから派生した語であると考える方が自然だ。

不思議なもので、言葉が誕生してから、その対象となる人やものが世間に増加することがある。
名前を与えられたことで、存在意義を持ってしまうのだろうか。
ジベタリアン増えたなー、と意識してしまうことで今まで目に入らなかったものが認識され、増加の印象を手伝っているのかもしれない。

さて、これらの語源をたどると「バタリアン」に行きつく。
おばさんとバタリアンをくっつけてオバタリアンは完成している。
さらに。
この映画の原題は「THE RETURN OF THE LIVING DEAD
映画史上初めてのゾンビ映画「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」のパロディとして制作されたものだ。
それを、日本の配給会社がキャッチーなタイトルを考案し「バタリアン」と名付けた経緯がある。
battalionとは大軍、大隊といった意。
バタリアン本来の意味とは別に、日本人にはおかしみのある語感として浸透してしまったのが、その後の流行語路線を辿る結果を招いたのかもしれない。
つまりこの時点で既に、造語の作為があったのだ。
配給会社の狙いとしても、コメディ色の濃いスプラッターホラーを売り出すにあたって、それとなくバカバカしい題名が必要だったと思われる。

この映画は、僕が小学生の頃(82年88年)、頻繁にテレビ放映された。
コミカル調に念を押すかのように、登場するゾンビたちにはわざわざ名前が付いていた。
女性のゾンビ、「オバンバ」。
オバンバは上半身だけのゾンビでベッドに括り付けられてしまう。
しわくちゃで干からびていて気持ち悪いのだが、あんまり怖くはない。

「脳みそ…。脳みそ…」と呟きながら襲ってくるのは「タールマン」。
ぐらぐらと揺れながら不安定な歩行で近づいてくるが、これも大して怖くはない。
タールマンの歩き方が面白かったので、翌日からマネをして遊んだ。
「ノウミソ…」と言いながらふらふら近づき、同級生の頭に思いっきり噛みつく。
友人が「いて!」となったところで、大笑いするだけの遊び。
みんなタールマンをやりたがるものだから、噛まれる者が不足する。
仕方なくタールマン同士が相手の頭を狙い合う競技へと変わって行った。

「オバンバ」「タールマン」という呼び名は、テレビ放映の際、字幕でご丁寧に紹介されていた。
登場したとき「ジェームズ・ボンド(ショーン・コネリー)」と出るのと同様に、「オバンバ」と名前が出ていたのだ。
バタリアン、オバンバ、タールマン、これらのネーミングが、この映画の印象を支配していた。
ふと口にしたくなる言葉の面白さを上手に表現していると思う。
事実、愛らしいキャラクターネーミングに当時僕は虜になってしまった。

また、「バタリアン」はゾンビ映画としても優れた出来栄えだった。
それまでのゾンビと違うのは、彼らに知能があるという点。
家の外にはゾンビが溢れかえっている。
警察に電話をしたが、到着したパトカーが襲われてしまう。
ゾンビの一人がパトカーに近づき、無線を使って応援を呼ぶ。
次の餌を呼び出したというわけだ。

ゾンビは人間を襲い、襲われた人間はゾンビになる。
とめどなく繁殖を続ける。
ゾンビ現象のおもしろいところだ。
死ぬわけではない。
ゾンビに生まれ変わるところがミソである。

死への恐怖とも違う。
今ある自分が別のものになってしまう恐怖である。
人間でいるということは、言いかえるならば、正気であるということだと思う。
正気を持った者は、みるみる減っていく。
世間にゾンビは蔓延し、正気でいることの方が困難になってしまう。

そしてあれからまた10年の時が経った。
バタリアンはまだまだ死なない。
そろそろ「~タリアン」を使った言葉が世にはびこるのではなかろうか。
油断すると僕も使ってしまうのかもしれない。

田舎風居酒屋を好む中高年男性「炉ばたリアン」。
人見知りで無口な若者「口べたリアン」。
観光客の少ない温泉宿を好む「ひなびたリアン」。
な、なんだ。ろくなのが思いつかない。
造語って難しいですね。


コメントを投稿

About

●2007年07月31日 16:58に投稿された記事です。

●ひとつ前の投稿は「「エイリアン」~平安の今日、エイリアン~リドリー・スコット監督」です。

●次の投稿は「「ナイスガイ」~本物の痛みに耐える人~サモ・ハン・キンポー監督」です。

メインページへ戻る。

最近書いたもの

このブログのフィードを取得
[フィードとは]