【コメントー未成年ノットギルティー】
うちの母親は当時スナックを経営していた。
スナックのママというやつだ。
僕の住んでいた小さな港町は見事に寂れていたが、それでも商店街から脇道に入るとスナックが軒を連ねていた。
スナックのママは、お客さんからご馳走になることが多々ある。
その日もお寿司屋にお誘いを受けていた母だったが、急遽お客さんに仕事が入り、とった予約に穴を空けるところだった。
「あんた行かんかね?」
中学高校の頃、僕はこういった経緯でお寿司などをお相伴にあずかることがあった。
夫婦が営む、カウンター席のみの小振りなお寿司屋さんに入った。
母は小声で
「お客さんが代金払ってくれるけね」
と言った。
この場にいないそのお客さんに僕は両手を合わせ、後は遠慮会釈もなしに注文をした。
その頃食べた、ヒラメのエンガワとアジのうまさが未だに忘れられない。
斜め前のカウンターに一人で寿司をつまんでいる小肥りの中年男がいた。
僕は店に入った時すでに気が付いていた。
彼がマスターに熱く語っているのは、どうやら小林正樹監督の「人間の條件(59~61年)」についてだ。
母親がようやく気付き挨拶をした。
彼はすぐ近所のビデオ屋の店主だった。
他にもう一軒ビデオ屋はあったが、品揃えからいって僕は断然小肥り派だった。
店主が映画好きであることは、ビデオのラインナップからすぐに読み取れた。
彼はこちらを見てニコリと会釈したが、またマスターとの話しに戻った。
僕は一瞬ドキリとした。
ビデオ屋で彼と会話を交すことはない。
未成年である僕がアダルトビデオをレンタルしまくっていることを、彼は黙って見逃してくれていた。
ルキーノ・ヴィスコンティとエロビデオをセットで借りたりする僕を、彼は黙認していた。
まさかこの場で、その件を暴露されることはないだろうが、僕は下を向いてネギトロ巻を頬張った。
母親が彼にお奨めの映画を聞いた際に「十二人の怒れる男」のタイトルが挙がった。
12人の陪審員が討論するだけの映画だと聞き、興味が湧いた。
玉子を注文しつつ、近々借りに行こうと思った。
冒頭は裁判所。
裁判が審議に入り、陪審員たちが奥の部屋へ引っ込むところから映画は始まる。
容疑者である少年の命乞いするような視線が印象的だ。
一室のテーブルについて、12人はまずそれぞれの考えを確認する。
順番に有罪か無罪かを述べていくのだが、誰もかれもが「ギルティ(有罪)」と表明する。
満場一致で有罪に決まるかと思えたとき、ヘンリー・フォンダが唯一
「ノットギルティ」と言う。
騒然となる他の陪審員たち。
全員が有罪か無罪かで一致しない限り、陪審員の結論としては提出できない。
誰の目にも明らかなこの有罪を、果たしてヘンリー・フォンダはどうやって反論していくのか。
ヘンリー・フォンダの知的な物腰には惚れ惚れとしてしまう。
すっきりと背筋を伸ばし、有罪に息巻く他の陪審員たちを確実に説得していく。
裁判での証言をつぶさに検証しながら、有罪の盲点を突いていく。
一人、また一人と、無罪に票を入れる者が出てくる。
その過程がスリリングでおもしろい。
思わず前のめりになって中学生(88年~90年)の僕はヘンリー・フォンダを応援する。
一室のみで展開されるドラマは、ともすると退屈な映画になってしまう。
舞台で好評を博した作品が映画化となり失敗するケースは多々ある。
密室からカメラが出ないとなると、背景が退屈になってしまうのは大きなリスクだ。
しかし、この映画ではそこを利点とし、息詰まる空気がドラマの熱気とともに伝わってくるようにできている。
後に知ったのだが、この映画の中で流れる時間経過は、現実の時間経過と変わらないらしい。
つまり、編集で途中を省くことをしていない。
沈黙があれば、沈黙の間だだけ、カメラが沈黙を捉える。
もはや観客は、陪審員の一員としてそこに居座っているのと同じ状況である。
このストイックな描写に、僕は完全に惹きつけられた。
12人のそれぞれの考え方、過去、家庭の状況などが、じわじわと明らかになっていく。
いよいよ有罪が少数派になるまで様子は変わった。
しかし、頑ななまでに有罪を通そうとする者もいる。
ここへ来て、冒頭の少年の表情が効いてくる。
彼は有罪なのか。しかし無罪だったとしたら・・・。
何しろよくできたシナリオである。
最後の最後まで堪能した。
こういうものをもっと見たいと思った。
翌日。
感想を述べるつもりで、僕はビデオ屋に返却に行った。
ところが小肥りの店長は不在でバイトの兄ちゃんが店番をしていた。
いつも通りに無言で返却し、せっかくなのでアダルトビデオを借りて帰った。
※脚本家三谷幸喜はこの映画をパロディ化しました。「12人の優しい日本人」についての記事は→こちら(07年7月18日の記事です)