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「街のあかり」~寒いヘルシンキ、暑い東京~
アキ・カウリスマキ監督

街のあかり」(2007年公開)

監督: アキ・カウリスマキ
製作: アキ・カウリスマキ
脚本: アキ・カウリスマキ
撮影: ティモ・サルミネン
編集: アキ・カウリスマキ
音楽: メルローズ

出演:
ヤンネ・フーティアイネン / コイスティネン
マリア・ヤンヴェンヘルミ / ミルヤ
マリア・ヘイスカネン / アイラ
イルッカ・コイヴラ / リンドストロン
カティ・オウティネン / スーパーのレジ係


【おはなし】

飲み仲間も恋人もいない孤独な警備員の男コイスティネンは、いつの日かきっと事業を立ち上げて周囲の連中を見返してやるつもりでいた。
女に騙されて刑務所暮らしをした後も、その決意は変わらなかった。


【コメントー寒いヘルシンキ、暑い東京ー】

遥か彼方、北欧の国フィンランドのことを、僕はこのアキ・カウリスマキ監督の映画でしか見たことがない。
朴訥な言葉と殺風景な街の様子。
カウリスマキ映画に出てくるフィンランドが果たしてどこまで本当のフィンランドを映しているのかは分からない。
だが、どこの国にも敗残者がいることに間違いはないのだろう。

昨日(07年7月22日)「街のあかり」を渋谷ユーロスペースで鑑賞してきた。
日曜日午前の渋谷。
朝、雨が降ったせいでいつもより人通りが少ない。
気温は上昇しつつあり、蒸し暑さにTシャツはぺったり背中に張り付いていた。
上京して12年も経つのに、いつまでもここは自分にとって場違いな土地のままだ。
渋谷に来ると、いつも厭世的な気分になってしまう。

「街のあかり」の主人公コイスティネンは警備会社に勤めている。
人付き合いが苦手な彼は、職場で仲間に疎まれている。
酒場で女に声をかけてみれば、連れの男に睨まれた。
隅っこに立っているとトイレのドアが開き、壁とドアに挟み込まれてしまった。

うだつの上がらぬ彼に目を付けたのは地元のヤクザ。
警備員と知って、親分は自分の女ミルヤを派遣する。
ミルヤはコイスティネンに接近し、立ちどころに彼の心を掴んでしまう。
目的は宝石店の鍵、暗証番号を聞きだすことだ。
到底美人とは言えない顔立ちだが、一度見たら忘れられない、実に味わい深い顔である。
このあたりの起用がいかにもカウリスマキらしい。
奸婦が必ずしも美女にならない。
人間界の機微をしっかりと捉えている。

コイスティネンには野望があった。
自分で警備会社を設立し成功を収めるつもりなのだ。
港にポツンとプレハブのソーセージ屋が建っている。
彼の計画を聞いてくれるのは、この店の女アイラだけであった。
彼女の優しさにも気付かず、コイスティネンは出会った女の話をしてしまう。

フィンランドヘルシンキを舞台に、寂しい男がみるみる転落していく様が描かれる。
夕景の街並みや、工場が望める港の風景が、しみじみと彼の不幸の伴奏となる。
どれだけ救いのない話をやっても、カウリスマキの映画は喜劇として成立する。
しれっとした演出で、人間のおかしみを表現することに長けた監督である。

やくざの女と知らずに、コイスティネンはミルヤとデートをする。
出かける前の部屋での様子が素敵だ。
皮靴を履いて、スーツのいでたち。
キッチンの引き出しを開けるとシュッと足を乗せて布巾で靴を磨く。
几帳面で誇りの高い男であることが伺える。
チャップリンではないが、孤独で貧しくとも心はピカピカな男なのだ。
また、ミルヤが初めてコイスティネンのおうちにやって来たとき、花瓶に花を活け、ベーグルを焼き、お肉もオーブンに入った状態でもてなす。
肩に手を回すことも拒まれ、彼女は早々に帰宅してしまうのだが。
そういった細やかな描写が、彼に襲いかかる悲劇をより一層切なく、おかしみを持ったものへと昇華させる。

ソーセージ屋のアイラはコイスティネンにとって唯一の救いである。
濡れ衣を着せられた裁判を傍聴し、刑務所暮らしの彼を手紙で励ました。
その想いは、なかなか彼には届かない。
出所した彼が、改めてやくざから暴行を受けたと聞き、彼女は現場に駆け付ける。
もしかしたら希望と呼べるものが二人の間に生まれるかもしれないことを予感させ、映画は幕を下ろす。

喜ばしいことではないのかもしれないが、年を経るごとにカウリスマキの映画が身近になってきた。
主人公は大抵の場合、落伍者である。
そして言い訳をせず、事態を粛々と受け入れる人たちである。
78分のこの映画の中で、コイスティネンが一度だけ笑顔を見せるのだが、それは塀の中で他の囚人たちと談笑している場面だった。
うまく社会を渡って行けなかった連中が笑顔になるのは、監獄の中だけとは皮肉な描写である。

映画館を出ると気温は更に上昇していた。
行き交う人も増え、むせ返るような湿気である。
人混みの坂を下りながら、僕はとても笑顔ではおれなかった。
コイスティネンの小さな正義感が、僕の胸の中にも灯った気がした。

カウリスマキの映画を存分に共感できる者は、多分社会的には黄色信号であったりするのだろう。
でも、人間的には青信号なのではないかと、希望的観測も含め僕は信じてみたい。

※この映画はチャップリンの「街の灯」へのオマージュだとカウリスマキは述べています。
「街の灯」についての記事は→こちら(07年7月8日の記事です)


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