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2007年08月 に書いたもの

2007年08月01日

「ナイスガイ」~本物の痛みに耐える人~
サモ・ハン・キンポー監督

ナイスガイ」(1998年公開)

監督: サモ・ハン・キンポー
製作: チュア・ラム
製作総指揮: レナード・ホー
脚本: エドワード・タン/フィベ・マ
撮影: レイモンド・ラム
音楽: ピーター・カム

出演:
ジャッキー・チェン
ミキ・リー
リチャード・ノートン
カレン・マクリモント
ガブリエル・フィッツパトリック
ヴィンス・ポレット
バリー・オットー
サモ・ハン・キンポー


【おはなし】

ジャッキーは料理人。ひょんなことからギャングに狙われてしまうことに。
あとはアクションの連続です。


【コメントー本物の痛みに耐える人ー】

98年の春頃。
フリーターの僕は、大学の頃からの友人たちと新宿にいた。
久々の友人が大阪から遊びにも来ており、映画で休日を過ごそうかということになった。

ちょうど世間では、映画「タイタニック」が流行っていた。
良くても悪くても、観た後の話題にはなるだろう。
適当な時間を調べ映画館へ向かった。
ところが、次の次の回まで客席は埋まっており、我々はほうほうの体で退散することになった。
「タイタニック」が公開されたのは確か前年の暮れだったはず。
随分経つので行けば見れると踏んでいたのだが、とんでもない。
まだまだ大ヒット絶賛上映中だった。

僕は、予定の映画が見れないという事態をほとんど経験したことがない。
福岡にいた頃(95年まで)は大抵が二本立て上映で、各回入れ換え制でもなかった。
おまけに90年代前半は、映画界斜陽の真っ只中。
行けばガラガラで好きなところに陣取れたし、ヒット作であっても同時上映の作品から見れば問題なく座れた。
上京してからは映画の趣向が変化し、ハリウッド大ヒット大作を見る回数も減っていた。
行列に並んだり、立ち見で映画を鑑賞する感覚が欠如している。

すぐに諦めて他の作品を探すことにした。
こういうときに出会う映画は想い出になる。
まったく予備知識もなしに、フラリと入る映画館。
僕たちはジャッキー・チェン主演の「ナイスガイ」を選んだのだった。

ジャッキーの映画を、僕たちは子供の頃にテレビでよく見ていた。
その後もずっと彼が映画を作っていることは知っていたが、久しく目にしていない。
二十歳を超えた今、彼の新作を見るということは、幼かった自分を振り返ることであり、今の自分を見つめ直すことであり、またジャッキーの俊敏さを確かめることであり、ただ口をアングリ開けてアクションを堪能するだけ、ということである。

上映までにまだ少し時間がある。
客席には、映画のテーマ曲らしきBGMがヘビーローテーションで流れている。
ノリの良い曲調は、我々の期待を否応なしに高める。
それにしても同じ曲を回し過ぎだ。
客の入りは悪かった。
おそらく、20年来のジャッキーファンであろう男性が、まばらに座っているだけだった。

いよいよ映画は始まった。
「タイタニック」の最先端CGを駆使した大スペクタクルが上映されている一方で、「ナイスガイ」のジャッキー・チェンは己の肉体のみを持ってアクション映画の何たるかを表現していた。
久し振りに再会したジャッキーは衰えるどころか、無茶なアクションに拍車がかかっていた。
どう考えても大怪我をするであろう人間の落下や圧縮が、めくるめくスピード感で展開する。

ストーリーに関しては実に浅いというか、あまり練られていないというか、大体で済ませてあった。
これは重要なことなのかもしれない。
ストーリーがしっかりと仕組まれていると、ジャッキーアクションに時間を割けなくなってしまう。
映画のバランスとして、アクション過多になるのは、それを求めている観客の期待に応えるサービス精神の顕れなのではなかろうか。
客席の僕は、物語の手落ちを全く気にとめなかった。
そんな馬鹿な!という展開があればあるほど楽しい。

ラストには巨大なトラックが登場する。
一つのタイヤの直径が、ジャッキーの身長の二倍はあろうかというようなトラック。
そのタイヤに飛びついて運転席へよじ登るジャッキーは、当時四十歳過ぎ。
トラックを乗りこなし、高級車を踏みつけ、豪邸をぶち壊してしまう。
それが何を意味するのかは、よく分からなかったのだけど、錆びていないジャッキー映画のハチャメチャぶりには感動があった。
全編笑って見ていたのだが、最後には「お前、すごいよ…」と胸が熱くなる思いがした。

僕は当時、アルバイトを転々としていた。
何がやりたいのか自分でもよく分からず、いたずらに毎日を消費していた。
この映画はジャッキーのハリウッド進出、第一作目。
ジャッキーの目指しているところは明確だった。
そして、自身の身体を駆使し、痛い目に遭いながら映画を創作していた。

この映画を見れたことが幸運に思えた。
上映が終わると、先ほどまで映画の中で流れていた例のテーマ曲が改めて館内に響き始めた。
一緒に行った同い年の友人たちの、満足気な笑顔を見た。
売店に直行した僕は躊躇なくサウンドトラックを購入した。
実は、映画のサウンドトラックを買ったのは生まれて初めてのことだった。
このCDは今でも僕の宝物だ。


2007年08月03日

「青春デンデケデケデケ」~いつの時代を生きるにしても~
大林宣彦監督

青春デンデケデケデケ」(1992年

監督: 大林宣彦
製作: 川島國良/大林恭子/笹井英男
プロデューサー: 大林恭子/小出賀津美/福田慶治
原作: 芦原すなお
脚本: 石森史郎
撮影: 萩原憲治/岩松茂
美術監督: 薩谷和夫
編集: 大林宣彦
音楽: 久石譲
音楽プロデューサー: 笹井一臣
助監督: 竹下昌男

出演:
林泰文 / 藤原竹良
柴山智加 / 唐本幸代
岸部一徳 / 寺内先生
ベンガル / 藤原孝行
大森嘉文 / 合田富士男
浅野忠信 / 白井清一
永堀剛敏 / 岡下巧
佐藤真一郎 / 谷口静夫
滝沢涼子 / 引地めぐみ
原田和代 / 内村百合子
梶原阿貴 / 羽島加津子
高橋かおり / 石山恵美子
根岸季衣 / 藤原絹江
日下武史 / 合田浄信
尾藤イサオ / 白井清太郎
入江若葉 / 白井志乃
水島かおり / 白井美貴
河原さぶ / 吉田工場長
天宮良 / 田中和夫
安田伸 / 西村義治
尾美としのり / 藤原杉基
佐野史郎
勝野洋


【おはなし】
時は1960年代。
とある四国の田舎に住む高校生たちが、ベンチャーズに影響を受けロックバンドを結成する。


【コメントーいつの時代を生きるにしてもー】

阿久悠が亡くなった。
40年間の作詞家生活で、実に5000曲にも及ぶ歌詞を手掛けたのだそうだ。
また逢う日まで」「時の過ぎゆくままに」「もしもピアノが弾けたなら」などなど、僕はたまのカラオケでは彼の曲ばかりを唄う。
舟歌」「あの鐘を鳴らすのはあなた」「ジョニーへの伝言」「宇宙戦艦ヤマト」「津軽海峡・冬景色」「UFO」挙げればきりがないほどに名曲を生み出している。

70年代の歌謡曲を、75年生まれの僕はリアルタイムで享受したわけではないのだが、これらの歌は頻繁にテレビに登場したため、僕の周辺でも阿久悠ブームというのは幾度となく訪れている。
どうやらあの作詞家が全部書いているらしいぜと、中学時代、高校時代、大学時代とその時々に阿久悠の曲は僕の身近に迫った。

80年代の半ばからテレビは過去を振り返り始めた。
歌に関して言えば、60年代70年代の曲が懐メロとして何度も何度も再登場するようになった。
僕は否応なしに、当時の曲を覚えた。
そして、それから20年の月日が経つが、未だに懐メロのメニューに変化はない。
思うに、懐メロという言葉に間違いがあったのではないだろうか。
歌謡曲名曲選の方がしっくりくる。
懐かしさが先行してしまいがちだが、いい曲だから何度でも聴きたくなるというのが正しい道筋だと思う。

80年代までは幸福にもベスト10の中に歌謡曲と演歌とポップスがまだ混在していた。
90年代以降の曲で名曲として挙げられるものが何曲あるだろう。
いつしか軽薄な作りの曲が若者の曲として勝手にマスメディアを支配し売れ筋となってしまった。
一方で誠実に曲作りをした若い人たちの曲もあったはずだが、大人たちの耳に届くことはなかった。
ネットやデータ録音の影響でいよいよCDの売れにくい時代に入った。
苦しい経営の音楽業界に、今こそ日本人のための歌謡曲が必要だと思う。
歌謡曲界の巨星が、今逝ってしまったのは本当に惜しい。
いい曲をたくさん残した、阿久悠。
いい曲は普遍性を持っており、いつの時代にも訴えかける力がある。

「青春デンデケデケデケ」は高校2年の終わりごろ(94年)に見た。
当時演劇部だった僕は、部員の友人からこの映画のチケットを譲ってもらった。
上映後に大林監督の講演もついているイベントだった。
友人と二人で会場へ向かった。

映画の舞台は60年代香川県観音寺市
主人公の高校生ちっくんは、ラジオから雷鳴のごとく響いたベンチャーズの「パイプライン」、デンデケデケデケに衝撃を受ける。
通常ベンチャーズ独特のあのギター奏法は「テケテケ」と呼ばれるが、ここでは「デンデケデケデケ」と表現されている。
ちっくんにとってはそう聞こえたのだ。
ナレーションの多用と早い場面転換。
生き生きとした描写で高校生のバンド結成にまつわる出来事が綴られる。

観音寺市の風景や、方言。
三年間の高校生活の中で、友人ができ、バンドを結成し、キャンプに行き、好きな女の子ができ、文化祭があり、受験を迎える。
僕は福岡県の突端にある港町に住んでいたが、この映画の雰囲気がやけに自分の生活と重なることに驚いた。
と同時に、彼らの方がずっと行動力があり、高校生活を満喫している様子であることに憧れを感じた。

そもそも60年代の設定である。
映画に登場する歌謡曲や歌手の固有名詞は、直接僕と結びつくものではない。
阿久悠の原理と同様に、この映画は青春映画として普遍的な力を持っているのだと思う。
誰しも経験する高校生活の機微が、実にうまく描かれているのである。
この映画は50年後でも、50年前でも、見た人の胸に青春のワクワクする思いを伝えることだろう。

バンドの仲間が増えていく楽しさは、バンドをやったことのない僕にもちゃんと伝わってきた。
お寺の息子である合田富士男が、特級品の存在感を見せる。
やけに大人びた言動が笑わせる、バンドのリーダー的存在である。
僕と友人は、一発で彼のファンになってしまった。
また、ギターの名手として登場する白井は若き浅野忠信が演じている。
浅野忠信はその後、イカれた役どころを演ずることが多くなったが、この映画では眼鏡をかけた口数の少ない高校生に扮している。
普通の人を演じた時の方が、彼の旨味が出る気がする。
ぼそりと吐く台詞が、実に素直に耳に入ってくる。
バンドメンバーの四人のやり取りは屈託がなく、見ていて気持ちがいい。

概ね理解のある大人たちが周囲を固め、時折怪訝な表情を見せる大人にも、彼らは動じない。いや、気付いていない。
彼らには、ただロックがやりたいんだという活気があり、そこには遠い未来のことなど微塵も心配しない清々しさがある。
楽器を買うお金がないとなれば、手作りでギターを拵えてみたり、バイトをやったり。
バイトの場面は、音楽に合わせて楽しそうに工場作業である。
この映画の魅力は、高校生にとって世界はそれほど怖いものではないという幻想めいた視点が、巧みな映画構成によって実現しているところにある。

夏休みの終わりに、主人公ちっくんが同級生の女子から海に行こうと誘われる場面がある。
急なお誘いで、ちっくんは驚きながらも水着を準備する。
海は空いていて、二人だけで過ごすことになる。
お弁当を広げ、二人で水着に着替えて海に浸かるだけである。
ちっくんは、こんなことで彼女は楽しいのだろうか、と思う。
意に反して、別れ際にその女の子は「ありがとう。楽しかった」と言う。
どちらが告白するわけでもない。
ただ、そういう一日があったという場面である。
な、なんとうらやましい!
自宅に女の子が一人で訪ねて来て、二人っきりで海に行くなんて、夢のまた夢。

この女の子は映画の中で重要な役割を持っているわけではない。
彼らのバンド活動をたまにお手伝いする背景として、ちょこちょこ登場するだけだ。
ちっくんにとっても、まさか彼女が個人的な接触を持ってくるとは思っていなかったし、見ていた僕にしてもこの不意打ちにはドキドキさせられた。
その後どうなるわけでもない展開も含め、この海水浴事件は淡い記憶の一片として僕の脳裏に張り付いた。

この映画は2時間15分の上映時間だが、振り返ってみれば、まったく高校の三年間というのは2時間15分で過ぎ去ってしまったような感触がある。
それからの人生の方が圧倒的に長いのだが、そのことを忘れていられる映画かもしれない。
一緒に見た友人と二人、残りの高校生活をなんとか楽しく過ごそうでなはいかと話し合った。
まだその時には、未来は僕らの手の中にあるつもりだったのだ。

阿久悠の名曲を、今後も僕は聴くだろうし唄うだろう。
そしてこの映画のことも、また見直すだろう。
ふっと日々が退屈に思える瞬間があるが、それは本当だろうか。
5000本の歌詞を書かずして、バンドも結成せずして、退屈とは何様のつもりだろう。
彼らの作品は、いつでも僕を励ましてくれている。


2007年08月06日

「ビリーズブートキャンプ基本編」~更生計画シェリーに続け~
ビリー・ブランクス

ビリーズブートキャンプ基本編」

インストラクター: ビリー・ブランクス
生徒: シェリー・ブランクス ほか


【内容】

ビリーのエクササイズを一緒になって行えば、痩せられるというDVD映像。


【コメントー更生計画シェリーに続けー】

※上映時間55分の映像作品として、今回は「ビリーズブートキャンプ」を取り上げてみます。
告白しますと、一番最初は一切動かず、55分間鑑賞してしまいました。


半月ほど前から、おけぴネット管理人の影響を受け、ビリーズブートキャンプに挑戦している。
この4枚組DVDの一枚目、基本編ばかりを一日おきに試す日々。

基本編のみをやっているのは、二枚目の応用編に全くついて行けなかったからである。
筋力も体力も、リズム感も、応用できるほどには発達していなかった。
すぐに踵を返し、その後はずっと基本編住まいである。
まずは基本をこなせるようになろうと思った。

このダイエットグッズが、今までの商品と決定的に異なるのは「運動すること」自体を提唱している点にある。
痩せたいなら動けと、彼は申しておるのである。
運動が嫌だから、いかに楽をして痩せられるかがダイエットの主題であったはずなのに、いや動けば痩せるよと、至極当たり前のことを堂々と打ち出してしまった。
目から鱗。
コロンブスの卵に勝るとも劣らないこの発想に、当初は馬鹿にしていた僕も次第に惹かれるようになってしまった。

DVDをかけると、打ち込みの音楽が耳をつく。
打ち込みとは、楽器で演奏せず、コンピュータで合成する音作りのことである。
打ち込みのクオリティとしては、底辺に位置するであろう浅い作り込み。
チコチコ、ピコピコと安い電子音が軽快なリズムを刻む。
安っぽい曲だからこその楽しさがある。
聞くところによると、ビリー隊長御自らこの曲を作られたとのこと。

元々は空手の選手だったビリー・ブランクス
全米大会連覇など大変な実績を誇り、その後軍隊の中で専属トレーナーとして隊員達を鍛えていたのだそうだ。
想像するに、アメリカ志願兵の若者達にビリー隊長は人気者だったのではなかろうか。
「よーし始めるぞ!」
兵士達は体育館に集められ起立の姿勢。
おもむろに隊長が取り出したるは、カセットデッキ。
再生するとチコチコピコピコと間の抜けた彼自作の曲が流れ出す。
隊員同士、顔を見合わせて笑いをこらえているのをよそに、ブートキャンプは始動する。
兵士達の間で、ビリーのキャラクターは話題になったろう。
「ちょっとあいつおかしいよな」「なんであんなに元気なんだろうな」「結婚してんのかな」
名物講師として、有名人となるのに時間はかからなかったろう。

ビリーが曲にノって喋りだす。まるでラップである。
各運動を丁寧に説明しつつ、気を付けるべきポイントを語る。
55分間、淀みなく喋りっぱなし。
なかなか気持ちのいい声だ。
この語りに引っ張られ、ついつい最後まで完走してしまう。
ちゃんと説明通りにやるのと、見た目の動きだけを模倣するのとでは、運動量に雲泥の差が出る。
力を込めて一つ一つの動きをやりたいのだが、如何せん持久力が足りない。
休み休みで参加させていただいている。

しんどい時に、画面右にいるシェリーは励みになる。
シェリーは金髪の美人。
ビリーもことあるごとにシェリーに近付き、彼女を手本にエクササイズを解説する。
彼女が「hooooo!」と叫ぶ顔のなんと凛々しいことか。
ビリーの後ろで10人ほどの生徒たちが居並んでいるのだが、シェリーは学級委員長の風格である。
彼女のような体型を目指して、皆頑張るのだ。

シェリーはビリーの娘であるらしいが、黒人から白人の子供は生まれない。
黒人の遺伝子は大抵優性遺伝するため、ハーフであっても、髪の毛は縮れ毛で、肌も褐色になる。
シェリーは母親の連れ子であるという事実を聞き、納得すると同時に、このビリーズキャンプ最大の見どころは、ビリーとシェリーの親子関係にあるのだと、一人勝手に解釈をした。
あくまで想像の話だが、シェリーが最初からビリーのことを「お父さん」と呼んだとは思えない。
映画で培った行間読みで、彼らのドラマを想像してみる…。

気の強い少女シェリーは、母親の再婚に反対だった。
ましてや相手は得体の知れないKARATE男。
もっと私を見てよ!
シェリーは母親への愛憎に苦悶し、ビリーへの嫌悪感を日に日に募らせて行った。
親への反発は彼女を非行へと走らせ、また早熟な自立心を芽生えさせた。
ハイスクール時代、ビリーの反対を押し切って校則違反となるアルバイトに勤しんだのは、お金を稼ぐためだけではなかった。
深夜のバーでウェイトレスをする間だけ、シェリーは自分の存在を確認できる気がした。
ビリーが学校に呼ばれ、校長先生に厳重注意を受けていることも知らずに、シェリーは自分勝手に振舞った。
卒業を前に、シェリーは恋人と駆け落ち同然でその町を飛び出した。
ビリーの必死の捜索にも関わらず、とうとうシェリーの行方は掴めなかった。
やがて2年の月日が流れた。
その年のクリスマス。
ビリー夫婦は二人で小さなパーティを開き、ささやかにイブの夜を楽しんでいた。
見上げた壁の額にはシェリーの写真。
二人はこの2年間というもの、心から笑顔になることがなかったのだ。
と、突然、玄関をノックする音が聞こえる。
誰も招待客はいないはずだ。一体、深夜に何者だろう。
ビリーがドアを開けると、そこには変わり果てた姿のシェリーが一人立っていた。
薬に侵されていることは明白だった。
「シェリー!」ビリーは駆け寄り、彼女を抱え上げた。
シェリーがどんな生活をしてきたのか、なぜ戻ってきたのか、ビリーは一切尋ねなかった。
ビリーの看病は愛情と情熱に満ちており、シェリーの身体と心の傷は次第に癒えていった。
翌年の秋、ビリーの誕生日パーティには、たくさんの教え子たちが集まっていた。
若い兵隊たちに飲み物を振舞うシェリーは溌剌としていた。
目を細めてビリーは彼女の姿を見つめていた。
その晩。ポーチでくつろぐビリーのところへシェリーがやって来た。
長い沈黙の後、シェリーはビリーの方へ向き直った。
「お父さん。私、お父さんのお手伝いをしたいの」
ビリーは驚きと喜びにグラスを落としそうになった。
初めてお父さんと呼ばれたことに耳を疑った。
「お父さん。ごめんなさい」
ビリーは鬼教官である我を忘れて、滂沱と涙を流した。
シェリーはビリーの胸に飛び込み、まるで子供のように泣きじゃくった。

そんな訳で。
シェリーは今、僕が見るビリーズブートキャンプの一員として自信満々の表情でエクササイズに取り組んでいる。
と、全くの作り話で補足しつつやるのが楽しい。

ビリーはエクササイズの中で、「自分を変えろ」と言う。
そうだ、僕は変わりたい。
この言葉には弱い。
怠惰な自分を変えたい。
自分を変えるためのエクササイズ。
今までどれだけ自分に甘く生きて来たか知れない。
これが最後のチャンスだ。
そのお手伝いをビリーがしてくれる。
シェリーに続け。

一日置きの「慌てず日程」で気長にやっているのだが、勿論皆勤とはいかない。
一回休んだ場合、二日も間が空いてしまう。
当初の意気込みも日を追うごとに細くなってきているのは、気のせいではないだろう。
このブログでビリーを取り上げたことで、今一度奮起したいと思う。
猛省!


2007年08月07日

「愛しのローズマリー」~上履きの外見~
ファレリー兄弟監督

愛しのローズマリー」(2001年

監督: ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー
製作: ボビー・ファレリー/ピーター・ファレリー/ブラッドリー・トーマス/チャールズ・B・ウェスラー
脚本: ショーン・モイニハン/ピーター・ファレリー/ボビー・ファレリー
撮影: ラッセル・カーペンター
音楽: アイヴィ

出演:
グウィネス・パルトロウ / ローズマリー
ジャック・ブラック / ハル
ジェイソン・アレクサンダー / マウリシオ
ジョー・ヴィテレッリ / スティーブ・シャナハン
レネ・カービー / ウォルト
スーザン・ウォード ジル
アンソニー・ロビンス / アンソニー・ロビンス(本人)
ブルース・マッギル
ナン・マーティン
ダニエル・グリーン
ブルック・バーンズ


【おはなし】

催眠術をかけられたハル(ジャック・ブラック)は、超肥満体の女性が美女に見えるようになった。
実際は100キロを超すデブのローズマリー(グウィネス・パルトロウ)が、モデルのように美しい女性に見える。
この恋の顛末やいかに。


【コメントー上履きの外見ー】

この映画の監督であるファレリー兄弟は、社会的なタブーを物語に織り交ぜたラブ・コメディを幾本も撮っている。
「愛しのローズマリー」では、人の外見に対する偏見をテーマとして扱っている。
ハルはひょんなことから催眠術をかけられ、人の心が外見に反映して見えるようになる。
実際はデブでブスなのだが、心が奇麗なローズマリーは絶世の美女としてハルの目には映る、という案配。

必ずしもデブちゃんの心根が美しいとは限らないし、美人にも美しい心を持った人はいるだろう。
だが、それにしたって、美人かブスかで随分とスタートラインが違ってしまうこの社会は歴然と存在している。(※)
その不合理にファレリー兄弟は敢然と立ち向かう。
好きになったあの人の、一体どこに自分は惹かれたのだろうか。
見た印象だけで、その人を判断してしまっていいものだろうか。

小学三年生(84年)のときだったか。
僕はクラスの友人男子四人と、他に誰もいない放課後の教室に残っていた。
メンバーは先日「好きな人」を発表し合った仲間だ。
普段の教室でも、その内の一人が好意を寄せている女子にわざと話しかけて、そいつを歯噛みさせたり。あるいは歯噛みさせられたり。
このところの我々は幼稚な盛り上がりをみせていた。
もちろん、その中の誰一人としてお目当ての女子に告白などはしていない。

放課後、僕たちが集まったのはちょっとしたいたずらをするためだった。
ジャンケンをして、負けた者が自分の好きな女子のソプラノ笛(たて笛)を五秒間吹くというゲームが始まった。
本当は吹きたいくせに、ジャンケンに負けた者は身をよじってそれを拒絶する。
みんなで笑いながら取り押さえ、半ば強制的に笛を口にねじ込んだ。
小学生の女の子のお子様がいらっしゃる皆様。くれぐれもたて笛は自宅に持ち帰らせるよう、僕からの忠告になり大変恐縮ですが、お気をつけください。

好きな子の椅子に腰掛けるだの、机の中に消しカスを入れるだの、ここまではまだましだった。
おもむろに一人がズボンとパンツを脱いだ。
理由の分からない彼の行動に、他の皆が大騒ぎになった。
彼は自分の担当の女子の机の上に近づき、おしっこを一滴だけ垂らした。
今思えば、狂気の沙汰なのだが、この時はその一粒のおしっこがおかしくて仕方なく、しばし笑い転げていた。

一通りはしゃいだ僕たちは教室を出て下駄箱まで下りてきた。
その小学校の下駄箱には各収納に蓋が無く、靴は丸見えの状態である。
僕はその時に初めて気がついた。
僕の好きだった女子の上履きは、思いのほか汚れていた。
他の生徒の上履きとは一線を画す汚さだった。
まるで醤油で煮しめたような色合い。
僕はとっさに身体で遮り、他の皆に見えないようにした。
あろうことか、今度は女子の上履きにいたずらしようかと言い出す奴が出てきた。
その案を徹底抗戦で否決し、僕は難を逃れた。
僕は、彼女の上履きが汚れていたことにもショックを受けたが、たったそれだけのことで気分が萎んでしまった自分にもショックを受けた。
靴が汚れていただけのこと。
それが一体なんだというのだ。

「愛しのローズマリー」を映画館で一人鑑賞しつつ、僕はその出来事をぼんやりと思い出していた。
人が人を好きになることの根拠には、果たしてどんな本質が隠れているのだろうか。
ハルとローズマリーが、めでたく結ばれて欲しいと望む僕の心には、「愛」とかいうものを照れずに信じてみたい思いがあったかもしれない。
ブスはブスだ。大抵の男は美人が好きだ。
それを承知の上で、きれいごととしてでも信じてみたい。
そんな気にさせられた映画だった。

この難しい題材を、ファレリー兄弟はあくまでコメディの色調で綴る。
ローズマリーがスレンダー美人に見えているのは、ハルただ一人。
彼女がデブチンである事実に変わりはないのだ。
そのギャップに笑いが宿る。
そういう意味では、デブはデブだと、はっきり語っているとも言える。
この映画では、デブのことをデブとして笑い飛ばしてしまいたい。
そんなデブのことを好きになるのがうれしいのだから。

※美人が世の中で得をするかということに関して、「夏物語」の記事で触れています。→こちら(07年7月19日の記事です)


2007年08月09日

「ぼくらの七日間戦争」~社会を捨てよう、七日間だけ~
菅原比呂志監督

ぼくらの七日間戦争」(1988年

監督: 菅原比呂志
製作: 角川春樹
プロデューサー: 青木勝彦
原作: 宗田理
脚本: 前田順之介/菅原比呂志
撮影: 河崎敏
美術: 小澤秀高
編集: 板垣恵一
音楽: 小室哲哉
音楽プロデューサー: 石川光

出演:
宮沢りえ / 中山ひとみ
五十嵐美穂 / 橋口純子
安孫子里香 / 堀場久美子
工藤正貴 / 相原徹
菊池健一郎 / 菊地英治
鍋島利匡 / 安永宏
田中基 / 柿沼直樹
大沢健 / 中尾和人
金浜政武 / 日比野朗
石川英明 / 天野健二
中野愼 / 宇野秀明
大地康雄
浅茅陽子
室田日出男
倉田保昭
佐野史郎
賀来千香子


【おはなし】

校則の厳しい学校を抜け出し、勉強を強制する家庭を捨て、子供たちは廃工場に籠城する。
大人たちとの攻防の末、子供たちは自由を手にすることができるのだろうか。


【コメントー社会を捨てよう、七日間だけー】

公開は88年
その後のテレビ放映で僕は見た。
映画の主人公たちと同様、僕も中学生だったので、彼らのレジスタンスには諸手を挙げて賛同した。

当時、非行や校則に関する話題は、しばしば世間を賑わせた。

非行などというものはいつの時代にもあるのだろうが、その頃はマスメディアが活発に採り上げていたので、社会問題としての認知があった。
80年代金八先生第2シリーズ積み木くずしスクールウォーズビーバップハイスクール尾崎豊などが人気を博した。
世相を反映したからドラマがヒットしたのか、ドラマがあったから世の非行文化が発達したのか定かではないが、ともかく校内暴力、シンナー、盗んだバイクで走り出すとかいったことは、僕の周辺でも見られた。

子供たちの非行に対抗すべく、大人たちは校則をもって反撃をした。
規律に縛ることで事態を鎮めようとしたのだが、返って子供たちの反発を招いた。
両者の対立に解決の糸口が見えぬまま、90年の校門圧死事件が起こったときには、「とうとうやってしまったか」という嘆息混じりの感慨も、世間にはあった気がする。

そんな中、僕はといえば非行になびくこともなく、校則に縛られることもなく、割りと伸び伸びと過ごしていたかもしれない。
普通に生活していれば校則にひっかかりはしないので、殊更にフリーダムを欲することもなかった。
つまり「ぼくらの七日間戦争」に描かれる子供たちの抵抗は、僕にだって反発心くらいはあるんだぜ、という欲求を満たしてくれたのだと思う。

映画では誇張された世界が描かれる。
理解のない大人の代表として教師たちが登場するものだから、僕も一緒になって「教師なんて最低だ!」と反抗気分を味わうことができたのだ。
そこまで校則に対しての恨みもないのだが、「オン・ザ・眉毛(※)」に憤ってみたりしたのだ。
当時は野球部に所属しており、僕は坊主頭だったのに。

それにしても、子供たちだけで暮らすだなんて、うらやましい。
ましてや。
この映画には宮沢りえが登場する。
本作が映画デビューとなるのだが、それはもう大変な美少女である。
子供たちだけで廃工場に立て籠もって、なおかつ宮沢りえがいる。
極楽浄土だ。

宮沢りえの演技は、この頃が最も上手だったように思える。
教室で他の生徒たちに啖呵を切る場面は立派だ。
途中から籠城に加わる女子の一人に過ぎないのだが、どうしたって映画は彼女を真ん中に持って来てしまう。
男子のリーダー争いなどもあるのだが、まあどっちだっていいじゃないか宮沢りえがいるんだから、と思えてしまうのだ。

教師役では、佐野史郎が光っていた。
冷徹非情な大人の権化として、子供たちを追い詰める。
こんなにムカっぱらの立つ奴はいない。
この役と、北野武監督の89年公開「その男、凶暴につき」での嫌味な署長役は抜群である。
どちらも端役だが、この二本で佐野史郎のことが好きになった。

籠城した子供たちは、大人たちの説得を振り切り断じて帰宅しない。登校もしない。
自炊をして生活する。
その敷地内に一人の浮浪者(室田日出男)がいた。
彼との交流が少し描かれるのだが、今にして思えば、社会の中で本当に自由を手にできるのは浮浪者だけだという皮肉だったのだろうか。
お金も食べ物もなく、保険も保証も身内も住む所もない浮浪者が真の自由人。
残念ながらそれができる度胸を持った者は、僕は勿論のこと、主人公の彼らの中にも一人としていなかっただろう。

子供たちはやがて大人となり、社会へと帰って行くのだ。
非行は青かった日々の思い出として過去に霞んでゆく。
80年代の非行児たちは今、親の立場になっているのかもしれない。
この映画は、今見ると恥ずかしい。
当時の自分の至らなさを痛感するのに絶大な効果を発揮する劇薬である。
楽しくもバカバカしい物語の進行。
偏った社会の描写。
武装して大人たちを排斥する痛快と幼稚。
なんだ、やっぱり子供だったんだなと、苦笑してしまうだろう。

そして僕の場合、はっきりとした切り替えもできないままにここまで来てしまった感が否めない。
子供のままでいることが美徳なのではないかと20代の半ばまでは思っていたほどだ。
反抗も非行もなかった代わりに、未だに反抗も非行もどこかで燻っている。
こういった大人の増加は危険である。
大人は満員電車でイライラしてはいけないのである。
成熟した大人は、冷静にものごとを判断し、行動すべきだ。
自分が特別な者であると信じた時代は、遠の昔に、あの宮沢りえがヌードになった頃に、過ぎ去ってしまっているのだと。
そう思う。

※「オン・ザ・眉毛」は前髪が眉毛にかかってはならないという校則のことです。映画では教師が生徒の前髪をハサミで切る場面がありました。


2007年08月10日

「しとやかな獣」~あやこがゆく~   
川島雄三監督

しとやかな獣」(1962年

監督: 川島雄三
企画: 米田治/三熊将暉
原作: 新藤兼人
脚本: 新藤兼人
撮影: 宗川信夫
美術: 柴田篤二
編集: 中野達治
音楽: 池野成
助監督: 湯浅憲明

出演:
若尾文子
川畑愛光
伊藤雄之助
山岡久乃
浜田ゆう子
山茶花究
小沢昭一
高松英郎
船越英二
ミヤコ蝶々

【おはなし】

とある団地の一室に住む家族。
両親、娘、息子の全員がそれぞれにしたたかな詐欺行為に勤しんでいる。


【コメントーあやこがゆくー】

先日、新宿に行くと駅前に大変な人だかりができていた。
普段以上の人混みに驚いていると、どうやら選挙活動が行われている。
翌日が投票日で、立候補者が最後の「お願い」に参上していたわけだ。
選挙カーが何台もあちらこちらに見られ、仮設ステージにマイクスタンドが置かれている。
ただでさえ混雑する新宿の駅前なのに、ビラ配り、ウチワ配り、拡声器での演説で、もう辟易である。
しかし、その賑わいを抜けるまでの間に僕は立候補者のチラシを一枚受け取っていた。
チラシには若尾文子(わかおあやこ)の顔写真が大きく載っていた。

参議院選挙で若尾文子共生新党から立候補していた。
夫の黒川紀章と共に選挙活動に東奔西走していたが、この若尾文子が錚々たる名映画監督たちと仕事をしてきた大女優であることを、新宿の若者たちが知るはずもない。
思わず手にしたチラシには、既に70歳を超えた老境の若尾文子の顔写真。
凄絶なほどの美人であった面影はしっかりと残っていた。

「しとやかな獣」は名匠川島雄三監督、未だ現役の新藤兼人脚本による傑作喜劇である。
とある四人家族が悪事に精を出している。
退役軍人の父親は、働かずして国からお金を貰うことに必死。
娘は作家と不倫をしてお金を絞り取り、息子は会社の金を横領している。
映画の舞台は家族が住む団地の一室の二部屋のみで、悪人たちの息詰まる会話劇が展開する。

事態は正常ではない。
狂気のホームドラマ。
世の父親が娘を叱るときに、もっと愛人らしく金をしっかりふんだくって来いとは、まさか言わないだろう。
そもそもこの文化住宅は娘の愛人である流行作家が彼女に買い与えたものだ。
いつのまにやら家族で住まわっている。
この映画の登場人物たちの道徳観念は、一般的な感覚とは全く逆さまだ。
逆さまなのだが、身勝手で強欲な彼らを見ていると、まるでこちらの腹の底がばれちゃうような、むずむずとした心地にさせられる。
笑ってしまうが、笑ってばかりもいられない。

登場人物たちの駆け引きが、螺旋構造のように絡みつつ、登り詰めるところまで登り詰める。
シナリオ、演出、演技、美術、音楽、全ての要素が噛み合って、その攻防を盛り上げる。
結末は、まったくもって…、まったくもってである。

高度経済成長の只中にあった当時の日本と日本人を真正面から風刺し、人間の醜い部分をユーモアに昇華させつつ描いてあるシナリオは、絶妙という一語に尽きる。
脚本の新藤兼人は映画監督でもあるのだが、シナリオにも定評のある人で、特に「しとやかな獣」は代表作と言って差し支えないのではなかろうか。
舞台劇にもなり得る作品だと思っていたら、近々舞台版をやるらしい。→舞台版紹介
まず間違いのないシナリオなので、どう転んでも見応えのある演劇になるだろう。

また、ともすれば退屈になりかねない密室劇を、川島雄三監督の神業的演出が面白さに拍車をかけている。
一度たりとも同じアングル、同じ画面サイズを撮らない。
ここまでやるか、というほどにバラエティに富んだカメラワークである。
緻密且つ大胆且つスタイリッシュ。
川島雄三監督は、よく「天才」と冠される人なのだが、常々僕は軽々しく天才という言葉が使われることについて疑問を感じていた。
エジソンもラーメン屋の店長も一緒くたに天才扱いである。
そして、この映画を見たときに、「あ、天才」と気づけば呟いていた。
多分、映画において天才とは、この映画が撮れてしまうような人のことを指すのだと思う。

俳優がまた素晴らしい。
父親役の伊藤雄之助に釘付け。
低い声、早口、ギョロ目、飛び出た下唇。
一家の主とは思えぬ不謹慎な発言の連発に、思わずのけぞってしまう。
僕は、地獄の底から這い上がって来たような顔を持つこの俳優の大ファンである。
他の映画ではぽっかり優しい男を演じたりもするから油断できない。
まさしく、怪優と呼ぶに相応しい。

母親役の山岡久乃は、おそろしい。
表面上は、人情ドラマの頼れるおっ母さんといった体を発現していながら、腹には暗黒世界のドロドロマグマが充満しているのが伝わってくる。
飄々とした中に、尋常ではない腹黒さだ。
これまた怪演。

そこに、スコーンと抜けるような美人が一人ちょこなんと座っている。
若尾文子の美しさがこの映画の不気味さをより強調する。

その後、選挙チラシの顔となって僕の手にまで届くことになる若尾文子。
僕は、振り向いて見たが共生新党の仮設ステージには、まだ演説者は到着していなかった。
立ち止まって待つことはせず、僕は足早にその場を歩き去った。
何しろ、「しとやかな獣」の若尾文子には、途方もない「内心」があったのだ。
下手に触れるのはよしておこう。


2007年08月13日

「ヴィレッジ」~泣ぐ子は見た~
M・ナイト・シャマラン監督

ヴィレッジ」(2004年

監督: M・ナイト・シャマラン
製作: サム・マーサー/スコット・ルーディン/M・ナイト・シャマラン
脚本: M・ナイト・シャマラン
撮影: ロジャー・ディーキンス
音楽: ジェームズ・ニュートン・ハワード

出演:
ブライス・ダラス・ハワード / アイヴィー・ウォーカー
ホアキン・フェニックス / ルシアス・ハント
エイドリアン・ブロディ / ノア・パーシー
ウィリアム・ハート / エドワード・ウォーカー
シガーニー・ウィーヴァー / アリス・ハント
ブレンダン・グリーソン / オーガスト・ニコルソン
チェリー・ジョーンズ / クラック夫人
セリア・ウェストン / ヴィヴィアン・パーシー
ジョン・クリストファー・ジョーンズ / ロバート・パーシー
フランク・コリソン / ヴィクター
ジェイン・アトキンソン / タビサ・ウォーカー
ジュディ・グリア / キティ・ウォーカー
マイケル・ピット / フィントン・コイン
フラン・クランツ / クリストフ・クレイン
ジェシー・アイゼンバーグ / ジェイミソン
チャーリー・ホフハイマー
スコット・ソワーズ
M・ナイト・シャマラン


【おはなし】

1897年、ペンシルバニア州。
森の中。その小さな村は、外界との交流を一切絶って生活していた。
青年ルシアス(ホアキン・フェニックス)がケガを負い、瀕死の重体となってしまう。
盲目の主人公アイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード)は、彼への愛を胸に森の外へと助けを求めに行く。


【コメントー泣ぐ子は見たー】

小学生のときだったか、秋田県男鹿のなまはげをテレビニュースで初めて目撃したときは、心底驚いた。
手には出刃包丁、大きな鬼のお面、藁を身に纏った男達が民家に騒々しく上がりこんでくる。
家の者が泣き叫ぶ幼児を差し出すようにして、なまはげはその子に遠慮なく怒号を浴びせている。
主人が差し出した一升瓶をラッパ飲みし、やがてなまはげは帰って行った。

これが神事だとは、にわかには信じ難いものがあった。
あまりの過激さに、胸の奥がブブブと震える思いがした。
怖いものが具現化し目の前に登場している迫真性が、子供の絶叫から伺える。
得体の知れない恐怖と、幾分のおかしさを伴ったこの伝統文化。
なまはげへの畏敬の念と、愛着が僕の心に刻み込まれた。
なまはげ、どうぞうちには来ませんように!

こういった祝祭で面白く感じるのは、地元の人間がなまはげとして演技をしている点である。
例えば、普段材木を運んでいる気のいいあんちゃんが、この神事の間だけ神となって振舞うのだろう。
衣装を付け、声色を変え、動きもそれらしく、神になりきる。
演じる者がいることで、その場は劇的空間へと変貌し、人々の目にはいつもの風景が違って映る。
この錯覚にこそ、お祭りの醍醐味があるのだと思う。

映画「ヴィレッジ」は、森の奥地に孤立した一つの村の出来事を描いている。
彼らは、外界との接触を一切絶っていた。
自分たちの共同体だけで生活し、まるでユートピアのような世界を形成していた。
森を出ることは厳しく禁じられており、村の掟として子供たちにも教育されていた。

なぜ森を出てはならないのか。
それは、怪物がいるからである。
誰も怪物の姿を見たことはないが、そう信じられているのである。
もしかすると迷信かもしれない。
勇気ある若者は、外への関心を持ちはじめる。

まるでおとぎ話のような設定だが、映画に流れる不穏な雰囲気は、この先きっと何かが起こってしまうであろう緊張感に満ちている。
夜の場面が素晴らしい。
森の向こうは深い闇に包まれており、どこからか鳥か獣の鳴き声が聞こえるような気がする。
かつて人間は自然を恐れ、神や化け物の存在を創造したのだろうが、正にこの映画で描かれる暗闇や夜の静けさは、恐怖の対象として怪物を生み出すのに充分な気配があった。

姿の見えない怪物であったが、その存在は徐々に現実味を帯びてくる。
そこは映画だ、なまはげよろしく、やがて怪物はとうとうそこに現れる。
村人たちは、走って家へ戻り、ドアに鍵をかけ、地下室に逃げ込み身を潜める。
掟を破ったことで、神の怒りに触れてしまった。
怪物が無事、森へ帰ってくれるよう皆で祈るばかりだ。

映画前半の、村の掟にまつわる怪物との心理戦は、最高に面白い。
村人は怪物を創造しただけではなかったのか。
ドアの隙間から見えた、現実にそこに歩いているあの赤い二足歩行の獣はなんだ?
恐怖映画の緊張感と、ファンタジー映画のケレン味が、えも言われぬ融合を見せている。
なまはげファンには堪らないものがある。
よくぞ、あの空気を映画で描いてくれたと思う。

怪物が本当にいることが分かってから、映画は主人公に苦難を与える。
主人公のアイヴィーは、盲目の若い女性。
彼女が想いを寄せている、勇敢な青年ルシアスが大けがを負ってしまった。
愛のために、彼女は自ら立候補し村の外へ助けを求めに行くのだ。
そのためには怪物のいる森を抜けなくてはならない。
ただでさえ目が見えないというのに、恐ろしい旅が始まってしまう。

M・ナイト・シャマラン監督は「シックス・センス」という映画で一世を風靡した過去がある。
シックスセンスでは、映画の結末に意外な展開が待っており、その衝撃に観客たちはびっくりした。
以後、観客は彼に「大ドンデン返し」ばかりを求める傾向があった。
どうしてどんでん返さないのかと、シャマラン監督はいつも非難を受けているように見えた。
きっと彼は、どんでん返しのために映画を撮る人ではなかったのだと、その後の作品を見て僕は感じていた。
彼は、映画そのもの、物語そのものを解体する視点を持っていただけだったのではなかろうか。
普段見ている映画が、いかに安直な約束事の上に成り立っているかを、実に生真面目な態度で壊して見せてくれているのだと思う。

そして「ヴィレッジ」においても、シャマラン監督の純粋な映画への想いは、とんでもない映画解体を行ってしまう。
しかも、若い男女の「愛」を恥ずかしげもなく真ん中にテーマとして据え置いた。
なまはげの原理は、映画前半だけにとどまらず、全編に渡って描かれる。
革新的で、且つ懐かしい映画の風情を孕んでいる。
どんぴしゃりで、僕の心を捉えた映画だった。

散々家の中で暴れたなまはげが、帰って行く際に柱の角で小指をぶつけた。
思わず「いてっ」と彼は、いつもの材木屋の声を洩らしてしまった。
それを、泣きながらも少年の僕は見逃さなかった。
なまはげが材木屋のあんちゃんだということが、垣間見れてうれしかった。
…言うなれば、そんな映画だと思う。


2007年08月14日

「グーニーズ」~冒険の入り口を探せ~  
リチャード・ドナー監督

グーニーズ」(1985年

監督: リチャード・ドナー
製作: リチャード・ドナー/ハーヴェイ・バーンハード
製作総指揮: スティーヴン・スピルバーグ/フランク・マーシャル/キャスリーン・ケネディ
原案: スティーヴン・スピルバーグ
脚本: クリス・コロンバス
撮影: ニック・マクリーン
特撮: ILM
音楽: デイヴ・グルーシン

出演:
ショーン・アスティン
ジョシュ・ブローリン
ジェフ・B・コーエン
コリー・フェルドマン
ケリー・グリーン
マーサ・プリンプトン
キー・ホイ・クァン
ジョン・マツザク
アン・ラムジー
ジョー・パントリアーノ
ロバート・ダヴィ


【おはなし】

主人公マイキーの家は、立ち退きを迫られていた。
少年たちは宝の地図を発見し、海賊の財宝を探しに冒険に出る。


【コメントー冒険の入り口を探せー】

小学生の頃(82年88年)、自宅の正面に小さな公園があった。
手狭な中に砂場とジャングルジムと鉄棒があった。
公園の端には溝があり、ゴムボールがよくそこへ転がり込んだ。
溝の中に残っていればラッキーなのだが、溝の終点はトンネルのように地面の下へ続いており、ここへ入るといくら手を伸ばしても届かない闇の中へとボールを紛失することになる。
幾度となく貴重なボールを失ってしまい、夏休みのある日、とうとううちの兄はトンネルの中に頭を突っ込んだ。
「入れそうや!」

兄の命令で懐中電灯を家から持って来た。
高さ40cm、横幅30cmほどのトンネルに足からゆっくり兄は侵入して行った。
中から兄が僕を呼んだ。
僕も同様にして足から入って行くと、足が地面につかない。
溝の終点から、1mほどの高さの段差になっていた。
身を反転し、肘で体重を支えおそるおそる足を着いた。

溝は乾いていたのに、この中は水がわずかに流れている。
暗くてひんやりしている。
蝉の声が遠く聞こえた。
兄が懐中電灯を点けると、丸く筒状の空洞トンネルが続き、先で左右に枝分かれしていた。
屈んで歩ける高さだった。
ボールが足もとにいくつも転がっていた。
さっき失くしたボールも、何か月も前に失くしたボールも落ちていた。
兄と僕は、少しずつ前進し枝分かれしたところまで到着した。
よく見ると壁面は苔だかヘドロだかでドロドロしていた。
右のトンネルも左のトンネルも先は長そうだったので、その日は一旦引き返した。

翌日から、この探検は僕たちの間で流行した。
友人たちがいれば怖さも半減し、随分と奥地にまで進めるようになった。
地上から光が射す小さな穴があったので、木の枝を突き刺してから引き返した。
溝を出て、先ほど地下で歩いていたはずの道順を辿って行った。
「この辺で左に曲がって…、たしか5mくらい進んで…」
公園をはずれた先の歩道にマンホールがあり、なんと蓋の穴から先ほどの枝が突き出ていた。
僕たちは歓喜に沸き返った。

映画「グーニーズ」では、海賊「片目のウィリー」が隠した財宝を求めて少年たちは探検をする。
海賊ウィリーが仕掛けた罠は今なお稼働し、次々に少年たちを襲う。
巨大岩が転がってきたり、剣山のような天井が下がってきたり。
その危機を少年たちがそれぞれの特性を生かしつつ乗り切る。

歯を矯正して、喘息の吸入器を手放せない主人公マイキー。
口が悪くてカッコつけマンのマウス。
食いしん坊でおデブのチャンク。
アジア系発明少年、データ。
この仲良し四人組は、自分たちのことをグーニーズと呼んでいる。
マイキーの兄ブランド、その彼女のアンディ、その友人のステファニィを巻き込んで、彼らの冒険は始まる。

冒険の舞台は少年たちが住む街の地下にある。
宝の地図に従って、海辺の灯台の地下へ下りてみると、壮大な冒険世界が広がっていた。
すぐ近くにある異世界。
うれしい設定だ。
もしかしたら、僕たちの町にもインディ・ジョーンズばりの冒険が潜んでいるのではないか。
この映画は公開当時家族で見に行ったが、その後数日間グーニーズの夢世界が忘れられず、落ち着かない日々を過ごした。

映画中盤、いくつかの危機を乗り越えて前進していた彼らの前に、太陽の光が差し込む。
地上へと続く井戸からの陽光だった。
膝まである水の底には、貨幣がたくさん散らばっていた。
井戸は街の中にあり、人々はコインを投げ入れては願い事をしていたのだ。
グーニーズが見上げると、街の若者三人がこっちを見下ろしている。
「おいお前ら、何やってるんだ?」「上がってこいよ」

海賊の財宝を探すなどという無茶な冒険を中断する機会が訪れたのだ。
冒険の異世界がふっと途切れ、観客の僕も我に返った瞬間だった。
正気になったことで、この冒険が決して夢なんかではないんだと自覚した心地になった。
これは遊びじゃないんだ。
我らがマイキーはより一層冒険への決意を強めるのだった。
なんとしてでも財宝を手に入れなければならない。
グーニーズとその仲間たちは、日常に住む若者たちの忠告を振り切って先を急ぐ。

僕はこの場面が好きだ。
普段の生活と紙一重のところにある大冒険が実感できた。
そう、溝から地下通路に侵入した僕たちの心意気は、グーニーズと同じだったはずだ。

僕はいい気になって、友人を順番に地下探検に招待していた。
その日も、友人一人を連れて「地上へのマンホール」をやってみせた。
案の定、友人は大喜びした。
将来的にはもっと奥まで行くつもりだと得意になって話した。
さて、冷たい麦茶でも飲もうと、その友人宅へお邪魔した際、友人の母親が眉間に皺を寄せた。
「あんたたち、臭い!どこ行って来たんね!」
自身の体を嗅いでみると、確かに臭いような気がする。
秘密の地下通路が下水道であったことを、その時初めて知った。

その数日後のことだった。
近所で少年が溝にはまり込む事件があった。
僕たちの溝とは別の場所だったのだが、同じ学校の上級生がボールを取ろうとして蓋のある溝に入り込み、抜け出せなくなったのだという。
走って現場に駆け付けると、救急車が出動しており、辺りには黒山の人だかりができていた。
溝の蓋をドリルで壊し、少年はようやく救出された。
自分で歩いて救急車に入って行ったところを見ると、幸い怪我はなかったようだ。

大人たちの行動は早かった。
既に噂になっていたのかもしれない。
夏休みが終わる頃には、我々の地下通路への入り口は太いパイプの柵で封鎖されてしまった。

映画「グーニーズ」には、少年期の冒険心がたっぷりと詰まっている。
数年前、DVDで20年ぶりに鑑賞し、作品のワクワク感は色褪せていないことを確認した。
きっとまだ、僕らは冒険に出られるだろう。
ただし、身体が大きくなっているため、狭い入り口を抜けることは相当に難しいかもしれない。


2007年08月18日

「ケイン号の叛乱」~風化寸前、モラルの壁~
エドワード・ドミトリク監督

ケイン号の叛乱」(1954年

監督: エドワード・ドミトリク
製作: スタンリー・クレイマー
原作: ハーマン・ウォーク
脚本: スタンリー・ロバーツ
撮影: フランツ・プラナー
音楽: マックス・スタイナー

出演:
ハンフリー・ボガート
ホセ・ファーラー
リー・マーヴィン
ヴァン・ジョンソン
ロバート・フランシス
E・G・マーシャル
メイ・ウィン
フレッド・マクマレイ
トム・テューリー
クロード・エイキンス


【おはなし】

新任の艦長は船員たちの堕落に厳しく接する。船員たちには不満が溜まる。
そんな折りに、軍艦ケイン号は嵐に巻き込まれてしまう。
帰還した後、艦長は艦長として適任者であったかどうかの軍法会議にかけられてしまう。


【コメントー風化寸前、モラルの壁ー】

横綱朝青龍の処罰を巡って、このところの相撲界は騒然としている。
75年生まれの僕にとって、横綱と聞いてまず頭に浮かぶのは千代の富士(現九重親方)である。
そして、横綱らしい横綱は貴乃花(現貴乃花親方)を最後に登場していないと思っている。
彼らは、驚異的な自己管理能力を持って、自分に厳しく、勝負に強い人間を貫いてくれた。

大相撲と甲子園、これは日本が痩せ我慢をしてでも守るべき、モラルの聖地だと信じてやまない。
時代がいくら移り変わっても、相撲と高校野球には面倒なシキタリをものともせぬ、超人たちが集う場所であって欲しい。
見本となる人物がいてくれるおかげで、我々庶民は襟を正すことができるのだ。
ただ強ければいい、というものでは断じてない。
彼らの存在は日本の、いや世界の、良心と良識を守る最後の砦だと思う。
いや、まったく身勝手にそう思っているだけなのだが。

サッカー日本代表やJリーグに対して、多くの人々が感じているであろうチャラチャラした印象は、良くも悪くも日本プロサッカー発足の際の「モラルは問わない」という風潮を未だにサッカー界が引き摺っているところからくるのだと思う。
勝っても負けても、日本代表の試合に、何かスッキリしないものを感得してしまうのは僕だけなのだろうか。
ワールドカップで日本代表が敗北した際に、プロ野球楽天イーグルスの監督野村克也が「茶髪だから負けたんだ」と言ったのは、あながち間違いでもないような気がしてしまう。
本当は、茶髪に染めようがアルマーニを着てようが試合でのプレーとはまた別の問題なのだろうが、野村監督の言う「茶髪」とは、それだけのことを指しているのではないと思う。
野球と人生の両輪を真剣に捉える野球道があるように、スポーツの道には美学や哲学といったものが必要だということなのではないだろうか。

いや、これはスポーツに限ったことではない。
職場でも学校でも家庭でも、遊びでも、芸能でも、芸術でも、集団における社会生活の中では、「もっと、ちゃんとやろうぜ」という心意気が、僕は必要だと思う。
必要だとは思うが、どうしても怠惰な方に流れて行ってしまう自分がいることも、残念ながら否定できない。

ケイン号の叛乱」は、とある戦艦の艦長と船員達の確執を描いている。
新任の艦長は規律に厳しく、船員はあまりにも融通の利かない彼に愛想を尽かす。
艦長の一連の行動は精神異常だというところまで発展し、軍事裁判にかけられてしまう。

この映画の前半に描かれる、船員たちの「少しくらい、いいじゃないか」という堕落や油断は、僕にとっても耳の痛い話題で、彼らの気持ちも分からないでもない。
だが、艦長の厳格な態度というのも僕は応援したい。
艦長を演じているのはハンフリー・ボガート
神経質にガミガミとやるのだが、全く船員たちが言うことを聞かない。
空回りしているリーダーの様子は見事だった。

この映画のよくできているところは、艦長が完璧な人格者というわけではないところだ。
必ずしもできた人物ではないし、リーダーとして的確な判断が下せる力量があるのかも疑問に思えるのだ。
見ているこちらも、艦長に信用がおけるのかグラついてしまう。
だが、それは本当に艦長だけに問題があるのだろうか。
船員たちに堕落が一切なかったとは言い切れはしないはずだ。
この辺りの匙加減が絶妙な構成で描かれる。

不満が噴出し、トラブルになる。
リーダーは、それを鎮めるべく決断をしなくてはならない。
そして決断は新たな不満を招く。
一体、どうすれば人々は満足のいく集団生活を送れるのだろうか。

集団における秩序の乱れは、中学生当時(88年91年)この映画をNHK衛星放送で観賞した僕にも、身近な問題として感じられた。
体育の時間にサッカーがあった。
2チームに分かれて試合をするのだが、まずチーム分けから難しい。
うまい奴と下手な奴との配分に手を焼くし、いわゆる不良たちの意見が通るものだから、一方で不満を抱える者も出てくる。
次はポジション決めに面倒が起る。
僕と同じ考えの連中がディフェンス(守備陣)に集まり過ぎてしまうのだ。
ジャンケンで負けた者は、渋々オフェンス(攻撃陣)に回り、フォワード(点取り専門)の不良たちと一緒に攻め込まなくてはならない。
不良連中は、絶対に自分のミスを認めない人種なので、パスが通らなかったりシュートが入らなかったりすると八つ当たりをしてくる。
オフェンスに回ったって、どうせ味方の不良から我が身をディフェンスするはめになるのだ。
不良の強引な采配と、嫌々ながらそれについて行く僕やその周辺。
どっちもどっちだ。
こんな集団で気持良くスポーツができるわけがない。

実にニコニコと朝青龍は親善サッカーに興じていたが、動きを見ていてつくづく運動神経の良い人だと思った。
不良はなぜだか運動が得意なケースが多いのだ。
ぜひとも、立派な横綱になって欲しいと心から願うばかりだ。


2007年08月19日

「私を野球につれてって」~おまけ野球で楽しもう~
バスビー・バークレイ監督

私を野球につれてって」(1949年

監督: バスビー・バークレイ
製作: アーサー・フリード
脚本: ハリー・テュージェンド/ジョージ・ウェルズ
撮影: ジョージ・フォルシー
作詞: ロジャー・イーデンス
作曲: ベティ・コムデン/アドルフ・グリーン

出演:
フランク・シナトラ
ジーン・ケリー
エスター・ウィリアムズ
ベティ・ギャレット
エドワード・アーノルド
ジュールス・マンシン
ブラックバーン・ツインズ
サリー・フォレスト


【おはなし】

大リーグ、ウルフズの新任球団社長は女性だった。
主要選手のジーン・ケリーは素人に任せられるかと息巻くが、彼女が美人だったので困惑。
野球の場面はほとんどなし。ラブコメディ・ミュージカル。


【コメントーおまけ野球で楽しもうー】

先日、友人と連れ立って野球観戦に行って来た。
西武ライオンズオリックスバッファローズ戦。
グッドウィルドームは、かつての西武球場。
西武線の駅名は未だに「西武球場前駅」のままなのが、昨今のプロ野球事情を窺わせる。
友人の一人が新座市民の割引でチケットを買ってくれていた。
内野自由席が1枚2000円。

球場では、一塁側か三塁側かに入場することになる。
西武側かオリックス側かの選択なのだが、特別どちらのファンでもない我々は、空いているであろうオリックスの三塁側のチケットを取っていた。
オリックスバッファローズは目下最下位争いに奮闘中。
案の定空席だらけだったので、客席に持参の食べ物を広げて陣取った。
手ぶらで行っても、球場にはケンタッキーやラーメン、そば、カツカレー、抹茶フロート、様々な店舗がずらりと並んでいるから、食べ物や飲み物には事欠かない。
僕は、冷やしラーメンなるものを買って食べた。
客席ではビールやサワーの売り子があちこちにいる。
このピクニック気分、お祭り気分にこそ球場観戦の楽しさがある。
おまけにうまい野球まで見れるのだから贅沢だ。

映画「私を野球につれてって」でも、野球はほんの設定に過ぎないおまけみたいなものだ。
映画冒頭からして、ジーン・ケリーフランク・シナトラが舞台で歌い踊っている。
大リーグ、ウルフズの主力メンバーでありながら、二人はオフシーズンの間、ショーの舞台に立っているのだ。
シーズン開幕直前に帰って来た二人をチームメイトは歓迎する。
そこへ、苦々しい顔をしてやって来た監督が球団オーナーが替ってしまったことを告げる。

そういったストーリーは、この映画ではそれほど重要ではない。
全編に渡って楽しい歌とダンスが披露され、特にジーン・ケリーのタップダンスをたっぷりと堪能できる。
ミュージカル界のマーロン・ブランドとは本人の弁らしいが、ダイナミックな踊りは大変魅力的だ。

一方、若きフランク・シナトラは、映画の中で瘠せ過ぎをネタにされるほどにほっそりとしている。
兄貴分のジーン・ケリーから頭をはたかれたりもする、純朴で可愛らしい役どころだ。
後年、イタリアンマフィアとの黒い関係が噂された俳優歌手だが、ここではその面影は全くない。

新任の球団オーナーはエスター・ウィリアムズ演じる若い美人女性だった。
この女優さんは元々競泳の選手で、この映画でも特に意味もなくプールで泳ぎながら唄う場面が挿入される。
美人オーナーにゾッコンのシナトラであったが、オーナーはなんだかジーン・ケリーとどうにかなりそうな気配。
恋の三角関係も至極あっさりと描かれる。
この映画に「葛藤」など無用。
楽しいアメリカの、楽しい国技にまつわる、軽いタッチのミュージカルコメディである。
気軽に見て、笑顔で映画館を出るような作品。

そう言えば、先日の野球観戦でも、思わず笑顔になる場面を目撃した。
三列前に座っていた、高校生くらいの男の子が売り子を呼んだ。
こちらも十代だろうか、売り子の女の子が彼の隣りの階段に腰掛け、背中のタンクからビールを注ぎ始めた。
野球部であろう、日焼けした坊主頭の彼は、しきりに彼女に話しかけている。
二人が会話をするのは、ビールが注ぎ終わるまでの間だけなのだろう。
満々とビールの入った紙コップを受け取った彼は、おもむろに鞄から小箱を取り出した。
小箱は包装されており、リボンも付いている。
プレゼントの体裁をしたその小箱は、女の子に手渡された。

試合は両投手の好投で、7回まで両チーム無得点の展開。
息詰まる投手戦をよそに、売り子の彼女が去ったあと、彼はしばらく天井を見上げていた。
よく見ると彼の周辺には二杯のビールが手付かずのまま置かれていた。
三杯目にしてようやくプレゼントを渡せたということだろうか。
どちらが勝つかまだ決着のつかないうちに、彼は三杯のビールをちゃんと片付けて、球場を去って行った。
今日の試合は、彼の中ではゲームセットだったわけだ。
また次の試合で、もしかしたら勝利をあげられるかもしれない。

素晴らしき、球場の恋。
西武ライオンズ西口投手の150勝達成が決まり、花火が上がった。
屋根付き球場なので、花火の煙が雲のように天井付近に充満したのがおかしかった。
おまけにプロ選手の野球まで見ることができた。
また、球場に足を運ぼうと思う。
TAKE ME OUT TO THE BALL GAME!


2007年08月22日

「暴走機関車」~黒い機関車と黒い本~ 
アンドレイ・コンチャロフスキー監督

暴走機関車」(1985年

監督: アンドレイ・コンチャロフスキー
製作: ヨーラン・グローバス/メナハム・ゴーラン
製作総指揮: ロバート・A・ゴールドストン/ヘンリー・ウェインスタイン/ロバート・ホイットモア
原案: 黒澤明/菊島隆三
脚本: ジョルジェ・ミリチェヴィク/ポール・ジンデル/エドワード・バンカー
撮影: アラン・ヒューム
音楽: トレヴァー・ジョーンズ

出演:
ジョン・ヴォイト
エリック・ロバーツ
レベッカ・デモーネイ
カイル・T・ヘフナー
ジョン・P・ライアン
T・K・カーター
ケネス・マクミラン
ステイシー・ピックレン
ウォルター・ワイアット
エドワード・バンカー
ダニー・トレホ


【おはなし】

二人の脱獄囚は追ってを振り切って貨物列車に乗り込んだ。
ところが機関車の運転手が心臓発作だかなんだか、ぶっ倒れて死んでしまう。
制御の利かなくなった機関車は、どんどんとスピードを上げて行く。


【コメントー黒い機関車と黒い本ー】

今、世間は夏休み。
電車に乗ると真っ黒に日焼けした小学生をよく見掛ける。
彼らが手に持っているノートは、どうやらスタンプラリーの冊子らしい。
JR東日本ではポケモンスタンプラリー2007を実施していたようだ(8月12日まで)。
親子で指定の駅を回っては、改札付近に設置されたスタンプを押しているのである。

たまの盆休みに大変だなぁと、お父さんに同情していたのだが、親子揃ってピカチュウの紙製サンバイザーを被っていたりもしていたので、わりと大人たちも楽しんでいたのかもしれない。

ホームに入って来た電車に向かって、男の子二人が手を振っていた。
子供は電車が好きだ。

映画が初めてスクリーンに映写されたのは、1895年のこと。
リュミエール兄弟の「列車の到着」という作品。
機関車がホームに入って来るだけの1分ほどの短いフィルム映像だった。
本物の機関車がこちらに迫って来るものだから、観客は歓声を上げて身をよけたという。
彼らの驚きは、電車に手を振る子供たちの興奮に近いものがあったと思う。

電車の躍動感は人々を魅了し、そして多分映画との相性が良いのだ。

暴走機関車」は、そのタイトルの通り、ブレーキが利かなくなった機関車を描いたノンストップアクション映画である。
もともと黒澤明がアメリカに乗り込んで撮る予定だったのだが、様々な事情によりお蔵入りとなった。
その後、黒澤のシナリオに手が加えられ、アンドレイ・コンチャロフスキー監督によって日の目を見た。
黒澤の名前は「原案」としてクレジットされた。

中学生の頃(88年91年)、この映画の存在を知り僕は本屋へ駆け付けた。
黒澤のシナリオ集「全集 黒澤明」という書籍が当時第六巻まで出版されており、その本屋には一巻と四巻と五巻の三冊が置いてあった。
第五巻に「暴走機関車」のシナリオが掲載されており、僕は立ち読みでこれを拝読させていただいた。
後に大学生になってから六巻全てを購入することになるのだが、この時は手が出ず、三冊読み切るまでこの本屋には随分とお世話になった。

シナリオを読んだ後、ビデオ屋で借りてコンチャロフスキー版を観賞したのだが、僕には甚だ消化不良な作品だった。
断然、黒澤のシナリオの方が面白い。
その後ハリウッドでもたくさん作られる、ノンストップアクションムービーのエキスが凝縮されている。
シンプルで力強い物語の構成。
中年の脱獄囚と若い脱獄囚の、男臭過ぎる確執。
機関車の常軌を逸した躍動。
ハラハラドキドキの設定の中、濃い人間ドラマが展開する。
これを1966年
の時点で書いていたのだ。

黒澤明監督の作品はビデオで完全制覇していたし、気に入ったものは何度も繰り返し鑑賞していた。
当時の僕はその気になっていたので、シナリオを読むだけでありありとその画面が頭に浮かんだ。
黒澤だったら、そうはしないんだよなあ。
と、コンチャロフスキー監督に厳しい批判をぶつける2時間となってしまった。
機関車が走るという動きそのものを、黒澤明監督ならもっと魅力的に撮ってくれたのではなかろうか。

今思えば、この映画がそこまでの駄作だったとは思えない。
脱獄から逃亡、パニックアクションがごった煮となった面白さ。
危機的状況での登場人物の描写、ジョン・ヴォイトの好演、雪原を行く真っ黒な機関車の情景など、結構見どころは多い。
あくまで、あの時の自分にとっての評価だったのだと思う。
「全集 黒澤明」の表紙を開く楽しさは、その時点で本編の映画よりも興奮があったのかもしれない。

ある時、うちの父親が「全集 黒澤明」を全巻買ってやろうと言ったことがあった。
下手に口を滑らせてしまったのかもしれないが、僕にとっては聞き捨てならない重大事だった。
翌日から「ねえ、まだ?」攻撃が続き、半年ほど経った頃だったろうか、
「絶版で買えんやったわ」
と父は述べた。
目の前が真っ暗になった。
父への猛烈なる不信感に汗ばんだ。
その後、本屋に行ってみると、第五巻が売れていた。
残りの二冊を、また開いてみた。
この重量と黒い表紙が堪らなく好きだった。

僕は、スタンプラリーに興じている親子を見て思った。
ポケモンサンバイザーで充分な満足を子供に与えられるのは得策だと。
いたずらにお金のかかることは避けておいた方がいい。
電車が走るだけで、それはもう娯楽になり得るのだ。

※黒澤明監督作品との出会いについての記事は「用心棒」で触れています。→こちら(07年6月13日の記事です)


2007年08月25日

「ダイ・ハード」~アンハッピーマンデー~
ジョン・マクティアナン監督

ダイ・ハード」(1989年公開)

監督: ジョン・マクティアナン
製作: ローレンス・ゴードン/ジョエル・シルヴァー
製作総指揮: チャールズ・ゴードン
原作: ロデリック・ソープ
脚本: ジェブ・スチュアート/スティーヴン・E・デ・スーザ
撮影: ヤン・デ・ボン
特撮: リチャード・エドランド
音楽: マイケル・ケイメン

出演:
ブルース・ウィリス / ジョン・マクレーン
アラン・リックマン / ハンス・グルーバー
ボニー・ベデリア / ホリー・ジェネロ・マクレーン
アレクサンダー・ゴドノフ / カール
レジナルド・ヴェルジョンソン / アル・パウエル巡査
ポール・グリーソン / ドゥエイン・t・ロビンソン
ウィリアム・アザートン / ソーンバーグ
ハート・ボックナー / エリス
ジェームズ繁田 / タカギ
アル・レオン / ユーリ
デヴロー・ホワイト / アーガイル
グランド・l・ブッシュ / リトル・ジョンソン
ロバート・ダヴィ / ビッグ・ジョンソン


【おはなし】

高層ビルに突然なだれ込んで来たテロリスト集団。
ニューヨークからたまたま訪れていた刑事ジョン・マクレーンは、たった一人でこの集団を相手する羽目に!


【コメントーアンハッピーマンデーー】

小学校に入る前だったろうか、僕は同級生の誕生日会に招かれた。
子供の頃の誕生日会と言えば楽しい思い出ばかりなのだが、この回に限っては僕は乗り気でなかった。
誕生日を迎える同級生は、ちょっと威張った奴で、そのリーダー気取りが僕は気に食わなかった。

母親と一緒に歩いていたとき、彼を中心とした子供のグループと出くわしことがあった。
僕たち家族がその街に引越したばかりだったからだろう。
母は母親らしく振る舞うつもりでか、僕の背中を押し「遊んでやってね」と我が子を宣伝した。
僕にしてみれば、ちっとも遊んで「もらう」必要なんかなかった。
自分の友達くらい、自分で作りたいやい。
余計なお世話と思いつつも、その場では愛想笑いを浮かべて、ペコリとお辞儀をしたものだ。
「おお、お前ら。今日からコイツも仲間な」
彼は子分たちに僕の入門許可を発表した。

そいつの誕生日会が、ひと月後にあるのだという。
僕は心の中で欠席を熱望したが、母になんと言えばよいか悩んだ。
あいつは嫌いだ、とズバリ言うのも気が引ける。
母に心配をかけたくない。
ダダをこねてやり過ごすのは、なんだかアイツに負けたような気分になるから避けたいところだ。

正当な理由を持って、正面きって欠席したい。
子供の僕が、無い知恵を絞って出したアイデアは「勉強」だった。
「お母さん。僕これから月曜は勉強の日にする」
と高らかに宣言したのだった。
誕生日会は一ヶ月後の月曜日。
まさか勉強の日に誕生日会が当たってしまうとは!
仕方ない欠席しよう。
これが僕の描いたシナリオだった。

先日、シリーズ一作目の「ダイ・ハード」をDVDで再見した。
随分前にテレビで見たきりの作品だった。
パート4まで続編が製作されるには訳があるだろう。
一作目の出来を確かめてみたくなったのだ。

この映画を「よく出来ている」と評する人は少なくないと思う。
実際、よく出来ている。
何がよく出来ているのか考えてみるに、丁寧な「伏線」の張り方がその要因の一つだと思った。

飛行機でロサンゼルスに降り立ったマクラーレン(ブルース・ウィリス)は、隣の乗客と会話をかわす。
ホテルで落ち着かない時は、裸足になって部屋の絨毯を踏むんだ、との乗客のさりげない助言が、その後、マクラーレンが全編裸足でアクションをするはめとなる伏線になっている。

やっつけた男のポケットから、たばことライターを取り出せば、その後マクラーレンは事あるごとに喫煙し、だんだんと本数が減って行く。
さらに、テロリストのボスとついに対峙した時、ボスと知らずにマクラーレンは彼に煙草を差し出す。
小道具がちゃんとドラマに絡んできている。

一つの建物の中だけで物語は進行する。
ハイテク高層ビルの一体どの位置に彼がいるのか、ともすれば観客は見失ってしまうところだ。
壁に金髪ボインの小さなポスターが貼ってある前を、銃を持ったマクラーレンが通過する。
観客は一瞬映るこのポスターを意外と記憶しているものだ。
その後、ビルの機構に這入り込み、ぐるっと回って違うところから出てきた彼は、また金髪ボインの前に出る。
なるほどあそことここは繋がっていたのか、と観客は安心し、また出会えたポスターにニヤリとする。

何から何まで伏線の始末がつくところが、この映画の快感だと思う。
アクション伏線ムービーと名付けてもいいくらいだ。
物語に一度登場したものは、ちゃんと始末がつかなければ消化不良を起こす。
原因と結果が結び付き、ああ気持ちいい、のだ。
始末をつけることをペイオフ(精算)と呼んだりもする。
前フリがあり、それが映画の中でペイオフされる。
この映画は、そこのところが大変上手に作られている。

あのとき僕は、伏線を張った。
母親にも気付かれず、月曜日は勉強の日となった。
毎週、漢字の書き取りなどをやった。
格好だけのものなので、頭に入るはずもない。
いよいよ来週が誕生日会だというところまで来て、僕は母親に欠席の旨を告げた。
「あら、そうかね。あんた、いいんかね?ほんとに?」
「うん。だってしょうがないもん。決めたことやけ」
それ以上口を開くとバレそうな気がして、僕は台所から逃げた。

誕生日、当日の夜。
母は、電話で欠席を連絡していたらしい。
「向こうのお母さんが、偉いですねーって凄く感心しとったよ」
母は、どことなくうれしそうにもしていたが、僕は顔が真っ赤になり、悪いことをしてしまったと後悔した。

翌日、彼に会ったときに僕は謝罪した。
「昨日ごめんね、行かれんで」
「ああ?おお」
僕を呼んでいたことすら覚えていなかったような様子だった。

一ヶ月に渡る僕の伏線は、こうしてペイオフされた。


2007年08月

●前に書いた記事は2007年07月です。

●次に書いた記事は2007年09月です。

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